音源はカセットテープである。私も持っている。当時、原島は34歳。1990年代半ばくらいまでは「それなりの講義をしていた」という上級幹部の評価が多かったが、それ以降明らかに軽んじるトーンに変調した。1975年(昭和50年)頃から池田は日興の真似をして「弟子分帳」を作成。「広宣流布血脈の本弟子(新弟子)たることを証す」との証書を渡し、「これは私から君に与える記別である」と語った。その新弟子の筆頭が原島嵩〈はらしま・たかし〉であった。一番弟子と考えてよかろう。原島は中学生でありながら池田監修の『立正安国論講義』の編纂にも加わっている。細井vs.池田紛争の渦中で原島は池田を諌めた。「君が立つなら私も後に続く」と語ったのは上田雅一であったと手記には綴られている。まだまだ表に出ていない歴史が多いことだろう。それでもやがて明らかになる日が来るに違いない。