戸田会長の死後、創価学会は幹部間による内部対立や主導権争いが勃発した。特に池田大作と石田次男の対立は当人同士だけでなく、彼らを支持する会員たちの間にも対立が浸透していた。また牧口会長の薫陶を受けた幹部たちは反池田、反石田を掲げ自分たちを主導とした集団指導体制の確立を目指していた。対立が表面化すると創価学会が批判していた他宗派からの攻撃にさらされることとなった。会長代行の小泉は最善策として戸田の長男を会長に据え事態を打開しようと提案。池田、石田両名はともに応じたが、戸田が要請を断ったため会長選びは白紙に戻る。そのため小泉はさらなる事態打開のため日蓮正宗の日淳へ相談、まずは他宗派の打倒を最優先とすること、戸田会長の七回忌までは創価学会会長の席を空席とするということを明文化した誓約を提示、池田、石田、和泉等は署名したが、署名は公開されない密室で行われたため、一部本部幹部以外へは近年になるまで明らかにされなかった。
【七回忌の密約】
「池石戦争 > 戸田の死後 > 一時休戦と密約」には、「池田、石田両名だけでなく牧口から薫陶を受けた幹部もこれに同意し署名、署名は立会人の日達が預かることとなった」とある。日淳でなかったのは既に病が篤かったためか(1959年〈昭和34年〉11月16日死去 )。堀米日淳が「わくら葉の かげに若芽の みゆるかな はるのひざしの めぐみにぞこそ」との歌を池田に贈ったのは1958年(昭和33年)3月30日とされる。