私的な文書ではあるが公開することにした。古谷さんの名前を残しておくために。
もう16年も経つのか。私は遺体の横でお母さんに跪(ひざまず)いて泣き詫びた。「何も出来なくて申しわけありませんでした」と。そっと私の左肩に置いてくれた手の感触を忘れることができない。あの日、私の涙は涸れ果てた。それ以降、泣くことが出来なくなった。父が死んだ折にも泣いていない。
追悼文に書いていないことは多い。神田さんにはずっと見守っていただいた。平井〈区〉副婦人部長は絞り出すような声で「奇蹟を起こしたいね」と言ってくださった。
そのお二方とも今は亡い。長峰さんも亡くなり、あろうことか小森さんも急逝した。
また大先輩である冨山さんから「よく戦ったな」とねぎらわれた一言を忘れることができない。
私はその日、五の橋支部の地区座談会に出席し、司会と御書講義を務めた。どうしても参加できない男子部員のために座談会の模様を伝えようと録音していた。私は古谷さんの話をした。そしてその座談会に長峰副総合長をお招きしたのも私であった。その1時間後に古谷さんは旅立った。
尚、本文が縦書きであるため漢数字表記をそのままにしておく。
――追悼文――
古谷主任部長を想う
第二江東〈区〉男子部長 小野不一
飄々と指揮を執るあの姿は、もうない。
少し高い声で笑うあの顔も、もう見られない。
淡々と語るあの声は、もう聞けない。
桜花舞い、散りゆく花びらの向こうに彼の面影が浮かぶ――。
二月二十二日――。それは私にとって生涯忘れられない日となった。厳寒の夜空を満月の光が晧々(こうこう)と照らす午後九時二十分、彼は逝った。享年三十七歳。その余りにも早過ぎた訃報に、多くの同志が胸を震わせて哭(な)いた。
嗚呼(ああ)、思えば七年前、はじめて脳腫瘍が発見され、成功率五十パーセントの手術を強靭なる生命力で乗り越え、不死鳥の如く広宣の陣列に復帰せしその勇姿。されども、派手な振る舞いを嫌い、大言壮語とは無縁の、水の流れるが如き信仰の心であった。
ミステリーを好み、モダンジャズを愛し、手塚治虫に惹かれていた彼は、話すことよりも、むしろ書くことの方が得意であった。そのユーモラスな文章は、皆を楽しませ、その場は笑い声で包まれた。
普段は物静かな彼であったが、悩める友のためには、バスを乗り継ぎ、タクシーをつかまえ、歩きに歩いて激励を惜しまなかった。その恐るべき執念の行動に舌を巻いた後輩たちが「マムシ」と綽名(あだな)したほどであった。
地を這(は)うが如き彼の闘争は常に成果となって現れた。部長時代は、座談会結集において常に一位。本部長になってからは、平成七年暮れに行われた「二〇〇万結集地区大会」で二四二パーセントの大結集を勝ち取り、見事、総区一位の栄冠に輝いた。勝って奢(おご)らず、負けても腐らぬ彼の振る舞いは、八風におかされない賢人の趣があった。
彼に再び病魔が襲いかかったのは昨年の八月であった。九月に手術。その結果、腫瘍は悪性で、いたるところに根を張っていることが判った。
私は信じたくなかった。しかし、ここから戦うしかなかった。必死の祈りを捧げる中で私は悟った。最も地道に戦ってきた彼であればこそ、このような宿命の嵐を呼び寄せることができたのだ、と。彼にしか乗り越えられないが故に彼が引き受けたのだ、と。
時は静かに流れた。が、憎き腫瘍は目に見えぬところで彼の身体を蝕(むしば)み続けた。皆、祈った。南亀戸本部では三日間にわたって十時間唱題を行った。
本部担当創価班が、江東男子部が、壮年・婦人・女子部の方々が、更には、未入会の友人までもが祈った。
真心の祈りに支えられて十一月に入り、一時退院。私が男子部長に任命になる直前に、新体制の一翼を担わんと凱旋するかの如く――。
暮れに再入院。年が明け病状は悪化。一月十日、危篤との報(しら)せ。直ちに今村部長と病院へ走った。面会時間の過ぎた病室へ向かった。彼は既に言葉を失い、定まらぬ視線の端に私を捉えた。私は彼の左手を握り「大丈夫、絶対に大丈夫だよ」と言うのが精一杯だった。と、彼が右手を動かした。すかさず伸ばした私の手を彼はしっかりと握りしめた。その力に、確かな生命力の手応えがあった。
そして一月十二日。一時間の外出許可をもらい大田池田講堂にて唱題会。
集いし十数名の中に、島根より馳せ参じる同志あり。千葉より駆けつけし先輩あり。都下より走り来(きた)る親戚あり。そして、誰よりも心痛める母と弟あり。
車椅子の彼は、唯一、自由が利(き)いた右腕に数珠をかけ、敢然と御本尊に向かった。宿命の鉄鎖を断ち切らんと心は焔(ほのお)となって妙法の七字を叫んだに違いない。その耳の奥には、我と我が同志の共戦の祈りがコダマした。仏前に掲げた江東青年部旗・太陽の旗は、真実の勝利を見守るかの如く朱の色も鮮やか。そして、我等の唱題でたなびかせる。
その前日、師より直接、私は聞いた。「悪と戦う者は金剛身を得る」と。心涙で濡らしながら拝した、師から彼へのメッセージであった。
唱題し終えた彼は生命の威力を増し、皆の手を次々と握った。師弟有縁の地にて今世最後の儀式となる――。
別れ際に手を振る彼の姿は今でも忘れることができない。
二月二十二日。川上主任部長と見舞う。その時、彼の身体は既に動かなくなっていた。開かれたままの瞳に光はなかった。しかし、自身の生命に宿りし因果の実相をば厳然と見つめていたに違いない。私が声をかけると呼吸が深くなった。
「わかってるよ。わかってるんだよ、俺たちが来たことが」と川上主任部長。
「興奮しなくていいよ」と私。私は語り続けた。「友人の日高が信心することになったよ」「先生は今、香港に行かれてるよ」「皆で祈っているから大丈夫だよ」――。
そして題目を数遍静かに唱えた。少しでも長生きして欲しかった。一つでも多くの共戦の歴史を残したかった。
だが、彼はその夜、逝った――。
その時、私は不思議にも彼が最後に指導を受けし長峰副総合長と共にいた。
「彼を頼む!」と言われ、「はい!」と応えし丁度その頃に彼は旅立った。
安らかな顔で眠っていた。長峰副総合長に「必ず勝ちます!」と誓った通りの姿であった。大勝利を誇るかの如き輝きを放っていた。
午前二時、遺体は自宅に戻る。小森総区男子部長の導師で、駆けつけし幹部等と枕経。終わるや否や男子部長が指をさした。乾いていたはずの左目に涙がにじんでいた。今にもこぼれそうなその一滴(ひとしずく)に感謝の限りが込められていた。
時が経つにつれ、薄く開かれた眼尻(まなじり)は切れ長になり、口元には笑みが湛(たた)えられていた。柔らかな頬は最後まで硬直することはなかった。荘厳なるその顔(かんばせ)をば、五百人に及ぶ同志は目(ま)の当たりし、妙法の偉大さに感激もひとしお。
通夜に先立ち、長峰副総合長を棺へとご案内した時の言葉が忘れられない。
「ああ、よく頑張ったなあ。立派だ。おめでとう!」
日蓮が一門となり通した崇高な人生に、誰もが心で拍手し、最敬礼した。七十年生きても色褪せた人生がある。短くとも光芒を放つ一生もある。人の幸不幸は人生の長さだけでは推し量れない。短くとも偉大な何かを残した人生は、可もなく不可もなき一生の百倍の充実がある。
荼毘(だび)に付した翌日より二週間ほど温暖な日が続いた。東京は四月上旬の天気。己(おの)が成仏を皆に知らしめんとするかの如く――。
一人の地湧の菩薩が使命を果たし、今世の舞台を去りし時、陸続と躍り出でたる新たな使命の友あり。その数、四十六世帯。彼の生命の力用(りきゆう)は諸天の働きとなって追い風を吹かせる。
今にして思う。彼は自らの寿命を縮めて、死亡者多き我が分区の宿命をば転換してくれたのだ、と。
悲しくとも涙すまい。口に妙法を唱うる時、彼と心は通じる。広布拡大の実践に身を徹しゆく時、彼は共にいるのだから。
桜花爛漫の候から風薫る五月へ。三世永遠の同志として我々の共戦は続く――。
彼と巡り会ったことに感謝しつつ――
彼と戦ったことに誇りも高く――
彼の存在を我が生命に刻印しつつ――。
一九九七年四月十一日
桜花舞う四十九日忌