自民党「改憲草案」を批判 桐ヶ谷章・創価大名誉教授講演:中外日報 https://t.co/ZsvNJF6q2o (草案は)基本的人権より「公の秩序」を上位価値とする指向を持っていると分析。政教分離の緩和に関しては「その先に国家神道の復活が見え隠れしている」と危機感を込めて論じた
— 氏家法雄 (@ujikenorio) 2015年11月6日
十年一日の愚論であると思う。中西輝政が「日蓮宗は新しいかたちの神道ではないか」との仮説を立てている(『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政、PHP研究所、2000年)。そう言われてみるとあからさまに日蓮が神道を批判した形跡はない。神天上の法門も、法華経を信ずれば善神が戻ってくるわけだから、単純な神社否定ではあるまい。
世界の中で日本人だけが「第二次世界大戦が終わって世界は平和になった」と錯覚し続けてきた。しかもその平和状態はアメリカの核の傘があればこそ享受し得たもので、決して平和憲法によるものではない。大方の日本人が北朝鮮による拉致被害や中国・韓国での反日運動を通して、少なからず国家意識を持つようになった。
牧口・戸田は明らかに民族主義者であり国家主義者であった。ところが池田の代になり創価学会はインターナショナリズム(国際主義)へと舵を切った。多分コミンテルンの影響を受けたのだろう。創価学会インターナショナルとの命名も第三インターナショナルのパクリであろう。
別に宗教団体が国家主義を唱える必要はないが、やはり国家観を養成しなかったのは致命的であった。日本の近代史に関しても無頓着極まりなく、そうした姿勢が逆に中国から評価されたのだろう。
日本という国の成り立ちから考えても天皇陛下が国家元首であるのは当然である。そして神道は日本の文化であると考えるべきだ。日蓮が採用した本地垂迹説は神仏習合の一つである。
桐ヶ谷といえば山崎正友が立ち上げた法学委員会の後を受け継いだ人物である。創価大学で多数の司法浪人を生み続けてきたその罪は重いと言わざるを得ない。「使命」という美名のもとで、ほんの少しの成功者と大多数の落伍者を製造しているのだ。