「力こそ真理」というように確かにそうなんですが、少し寂しい気もしますね。具体的には、集合離散の自由度を意識的に維持しながら牽制していくのが妥当なところでしょうか。ほかのオプションも少し考えて見たいとは思いますが、、RT @fuitsuono: 集団そのものが暴力
— 氏家法雄 (@ujikenorio) September 15, 2010
大首肯。ですから社会環境のあり方としては「流動性」を担保すべきで、それがマーケットの自由競争なわけです。機会均等としての自由。しかし利権が阻害しているのが現状です。(続く) RT @ujikenorio: 具体的には、集合離散の自由度を意識的に維持しながら牽制していくのが妥当
— 小野不一 (@fuitsuono) September 16, 2010
利権とは個人的利益ではなく集団的権益の維持・拡大です。すると所属組織からの経済的見返りに人々が支配されている様相が見えてきます。宗教がご利益と罰をもって信徒を束縛するのであれば、これまた経済と考えることが可能です。(続く) RT @ujikenorio: 集合離散の自由度
— 小野不一 (@fuitsuono) September 16, 2010
流動化を阻害する最大の要因は土地への呪縛です。村の論理は村八分の論理でもある。火事と葬式(これで二分)以外は完全に無視するわけですから、集団が暴力性をはらんでいるのは明らかです。村人は経済的見返りのため暴力に加担するのです。国家、民族、企業も村です。(続く)
— 小野不一 (@fuitsuono) September 16, 2010
我々が正義に憧れてやまないのは、社会に正義が存在しないことを知っているからです。幼い頃にテレビで知った正義の味方は、必ず変身するか仮面を着用してます。これは正義が非日常であることを示唆しています。ありのままの人間が正義を行使することは、まずありません。その意味では神といえそう。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 16, 2010