2012-10-14

マンダラに挟まれていた「雨ニモマケズ」

 本日付けの日経新聞に「題目に託した祈りの詩篇」と題した記事があった。山折哲雄の一文だ。宮沢賢治は37歳で没した(1933年)。死後、常に携行していた大きなトランクの中から黒い手帳が見つかり、そこに書かれていたのが「雨ニモマケズ」であった。胸を病み、命のともしびが揺らぐ日々にあって、詩が生まれ得る事実に感動を覚える。詩の末尾にマンダラが描かれていることは以前紹介した。

雨ニモマケズ~宮沢賢治~

 青空文庫のテキストにはそこまで収められている。ところが山折によれば、手帳の3枚目にもマンダラがあるとのこと。更に20枚ほどめくったところに「雨ニモマケズ」と記されているそうだ。

 なぜなら「手帳」を虚心に読んでいくと、その詩句全体が「南無妙法蓮華経」によって前後を護(まも)られているような形で書かれていることに気づいたからである。そこからは賢治の祈りの声がきこえてくるからだ。

 山折は詩の前後で題目を唱えることで詩が「はじめて終結にむかう」としている。こういう余計なことを付け加えるのが山折の悪い癖である。別に宗教学者が信仰者ぶる必要はあるまい。

 タイトルも付けられなかった言葉に欺瞞の臭いはない。病苦は人間を丸裸にする。淡々と流れる水のような透明感があり、情熱や闘争心は殆ど感じ取れない。

「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」――大多数の人々は「なりたい」とは思わない。生前の宮沢賢治は無名の作家であった。自費出版(『春と修羅』)以外では1冊の本(『注文の多い料理店』)しか刊行していなかった。こよなく愛した妹も病没した。

 そんな不遇にありながら、彼が最後に望んだのは「作家としての成功」ではなかった。本を出版することでも、本が売れることでも、有名になることでもなかった。

「サウイフモノ」とは決して彼の理想ではなかったはずだ。ただ「平常の心構え」をさらりと書いたに違いない。なぜなら、宮沢は幼い頃から既に「サウイフモノ」であったからだ。

 尋常小学校時代、罰として、水を満杯にした湯呑を持って立たされていた生徒を見かねた賢治は、辛かろうと言ってその場で水を飲み干してしまった。

Wikipedia:その他のエピソード

 宮沢賢治は常不軽菩薩として生きたのだ。彼を不遇と見つめるのは私の瞳が曇っている証拠である。

 尚、この詩に関しては土田世紀〈つちだ・せいき〉が『同じ月を見ている』(小学館、1998年)で劇的な物語に仕上げている。

春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ) 注文の多い料理店―版画絵本宮沢賢治