此れにつけても、殿の御身もあぶな(危)く思ひまいらせ候ぞ。一定かたきにねらはれさせ給ひなん。すぐろく(双六)の石は二つ竝びぬればかけられず。車の輪は二つあれば道にかたぶかず。敵も二人ある者をばいぶせ(悒)がり候ぞ。いかにとが(科)ありとも、弟ども且くも身をはなち給ふな。殿は一定腹あしき相かを(面)に顕れたり。いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ。(「崇峻天皇御書」建治3年〈1277年〉:真蹟)
双六の歴史は古く、奈良時代に最初の禁令が出されている。我々が知っているのは絵双六と呼ばれるもので、平安時代や鎌倉時代に流行したのは盤双六。バックギャモンと同じゲームだったようだ。つまり博奕(ばくち)だったわけだ。
語源としての双六は古くインドに誕生した仏教語で、『涅槃経』にある「波羅塞戯」が、中国で双六と呼ばれるようになり、これが日本に「仏法双六」・「浄土双六」として伝わり後の絵双六の原型を成している。(Wikipedia)
果たしてサイコロを振ったのだろうか? 気になるところである。
ゲームを支配するのは偶然性だ。何が起こるかわからないからゲームは面白い。人生もまた同様であろう。仏教が説く因果とは事象の推移を意味するものではない。地獄という果は内在する瞋(いか)り(=怒り)に起因する、というのが仏教的視座である。ブッダが説いた業因業果(≒自業自得)は瞬間に即した発想であって、過去世・来世といった物語とは無縁であると私は考える。
もしも「仏法に偶然はない」のであれば、仏法はキリスト教となる(※予定説)。そのうち大乗教団から形を変えたインテリジェント・デザイン説が出てきたとしても別に驚きはしないが(笑)。
・自由意志と運命について
・因果律