2016-11-08

宗門の弘教史 明治大正期

宗門の弘教史 明治大正期

 初めて知る興味深い記述がいくつもある。

昭和8年

堀米尊師の御講に牧口、戸田らが参加
他の講員とも相容れなくなり、中野・歓喜寮(後の昭倫寺)に所属替え。 当時の歓喜寮御住職、堀米泰栄尊師=後の65世日淳上人に指南を仰ぐが、在家団体・創価学会の設立を願い出、許されず、12年に教育研究の名目で設立。

昭和17年

牧口会長自ら、宗門と絶縁と近い状態となる
会員にも寺に行くことを止めさせる。 「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と、席を蹴って退去」『畑毛日記』

直達講の副講頭であった竹尾清澄氏は、当時の牧口氏の信仰を次のように記している。「牧口氏は(中略)利善美の理論などを説き、畑毛を中心に左右の山地を取り入れた一大仏都建設の構想などを述べていたそうであるが、是は全く日蓮正宗を無視する異流と云わざるを得ない。牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いような所が見られた。」

牧口ら靖国神社に参拝
「我々が靖国神社へ参詣するのは『よくぞ国家のために働いてくださった。有難うございます』といふお札、感謝の心を現す」(学会機関誌「大善生活実証録」)と牧口会長が語る。つまり牧口等が靖国神社参拝を行っていたことを意味する。

 牧口と戸田が大日本皇道立教会に参加していたことを思えば、靖国神社の参拝は当然という気もする。