科学を中心とする学問が進歩するのは方法論が確立されているからである。小室直樹が仏教は法前仏後でキリスト教(≒アブラハムの宗教)は神前法後であると指摘。更に根本的な違いは因果説と予定説にあると喝破する(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹、2000年)。眼から鱗が落ちた。どっさりと。卓越した見識が私の蒙(くら)い部分を啓(ひら)いた。
本尊はモノである。今風に言えばオブジェクトだ。三大秘法はこれを構造化したものと捉えることができよう。いずれにせよ本尊も三大秘法も日蓮自身も「法後」であることは確かだ。
久遠元初の自受用報身如来なんてのは大日如来の焼き直しであろう。実在したブッダから懸け離れて「神格化した仏」を目指したのが本仏論である、というのが私の推測だ。
また小室直樹は日本社会の諸問題の原因は元をたどれば「形骸化した憲法」に行き着くと鋭く見抜いた(『日本人のための憲法原論』小室直樹、2006年)。社会(国家)と憲法のあり方は教団と教義に置き換えることが可能だろう。
創価学会は2014年11月に「教義条項」を改正した(※「師弟不二ARCHIVE」を参照した)。そして「会則の教義条項改正に関する解説」が2015年1月29日付聖教新聞に掲載された。会員の目を逸(そ)らさせるかのように1面ではなく3面にしたことも覚えておくべきだ。内容はといえば支離滅裂の極みといった代物で、はたから見ると「逆ギレ」の様相を呈していた。まさに「突っ込みどころ満載」の解説で「長らく創価学会の首脳を務めてきたあんたの口がそれを言うか?」との思いを禁じ得ない。
原田が解説で示した「聖人御難事」の“新解釈”は、日蓮正宗に対して散々日蓮宗諸派が指摘してきた内容であり、それを完膚なきまでに否定したのが池田の『聖人御難事講義』(『日蓮大聖人御書講義 第24巻』1974年)であった。あろうことか原田は池田を散々持ち上げておきながら、同じ文章で池田を否定するという愚挙を犯している。ま、あんまり興味がないのでこれ以上は触れない。
教義は規範である。規範をコロコロ変える教団に待ち受けているのはアノミー(無規範、無連帯)だ(『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹、1976年)。今回の教義改正によって示されたのは「本尊よりも学会本部の判断が重い」という一点であり、学会員は行学によって培った判断力を放棄し、組織の指示に従うだけの大衆となってしまった。
1984年1月、学会組織は大B(大ブロック)制から地区制に替わった。これを機に信仰体験は活動報告となった。そして信心よりも活動を重視してきた成れの果てが教義改正にまでつながっているのである。