・『七帝柔道記』増田俊也
・『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
「僕、吉原に親戚があって、そこの親父さんが亡くなったので、葬式に来たんですよ。来たついでに、沼津中学と静岡中学に優秀な選手が居たら、それを四高へ引っ張ろうと思いましてね」
と言った。
「静中へも行きましたか」
「行きました。選手10人を全部並べておいて、一人残らずみんな締めちゃった」
「ほう」
ほうと言うほかなかった。今日の調子では、それが大言壮語であるとも思えなかった。この小柄の青年は次々に中学の柔道部の選手たちを締めてしまったことであろう。
「ここらの中学は寝技を知らないから、僕みたいなのにも、簡単にやられちゃいますよ。どうですか、四高へ来て、柔道をやりませんか。みっちり3年やれば相当強くなります。あなた方は立技がきくから、僕みたいに立技を知らない者の寝技とは違って、本当に強い寝技の選手になれる」
【『北の海』井上靖(中央公論新社、1982年/新潮文庫、2003年)】
井上靖の自伝三部作は『しろばんば』、『夏草冬濤(上)』『夏草冬濤(下)』、本書となる。よもや井上が七帝柔道の経験者とは知らなかった。
その熱と力に脱帽した。熾烈(しれつ)の度合いが修行の域にまで達している。何にも増して彼らのオルグ活動にはさすがの創価学会や共産党もかなわないだろう。帰省先で目ぼしい選手を見つけ出し、会ったことすらない先輩から熱烈な手紙が届くのだ。旧制四高(しこう)は現在の金沢大学である。大正前半において四高柔道部は7連覇を成し遂げているので名門といってよい。
井上靖は複雑な家庭環境があり5歳の頃から祖母の手で育てられた。成績は優秀だったが、どこか世間を斜めに見ているところがありニヒリズムに傾いていた。そこで柔道と出会う。
私にとっては静岡の方言が目新しく、昭和初期の礼儀正しい振る舞いが新鮮であった。