チラッと見たが、まあ酷い代物だな。走狗ならぬ創狗といってよし。宮田が未来を展望しているのに対して、須田は古いタコツボ教学をかざすという展開である。大体、「血脈」を持ち出した時点でアウトだ。最蓮房宛ての遺文で真蹟ってあったっけ?
宮田が抱く危機感を理解できる創価学会員は殆どいるまい。科学の世界は既に万象を情報と捉えている。そして科学は宗教をも捉え始めた。もはや宗教が科学に追いつくことはないだろう。科学の速度は凄まじいばかりだ。しかも科学は誤謬(ごびゅう)を検証し訂正する。
簡単に述べよう。本尊、功徳、血脈を科学と同じレベルで定義することは難しい。むしろ出来ないと言った方がよい。教学とは身内に説明できるレベルの言語技術のことで客観性を欠く。いかなる教団であれ病気が治癒したという体験談は掃いて捨てるほどある。最近読んだ本では生まれつきの唖(おし)が治ったというエピソードが紹介されていた。もちろん創価学会ではない。
信仰とは定義し得ないものを信じ切ってしまう思い込みの強さであろう。狐や狸であれ強く信ずれば心身に大きな変化を及ぼすことは十分あり得る。
日蓮の教えに欺瞞があるのは、本尊を持(たも)てば成仏できる→ただし信行の題目を唱えること→そして血脈がなきゃダメ→心が合ってなくても祈りはかなわんぜよ、と段階的な条件がつくためだ。しかも悟りについては何も語っていない。煩悩即菩提だなどと本覚論をぶち上げるのみ。
鎌倉時代はそれで通用したかもしれないが、現代では通るわけがない。
もっと簡単に言おう。創価学会の信心に功徳があるのか? 本当にあるのか? あんたの地区の座談会でひっきりなしに功徳が語られているのか? 大体、創価学会員のブロガーで功徳を綴っている奴はいるのか? 掲示板は揉め事だらけで功徳の話なんかこれっぽちもねーぞ(笑)。
ご利益が欲しいのはそりゃ人情だ。だからといってそこに付け込んでいいとは思わない。
結局のところ須田が言いたかったのは「影響力のある幹部は口を慎め」ということなのだろう。まさに創狗というべきか。ま、大した人物じゃないからね。俺は知っている(笑)。