文字マンダラが表現しているのは虚空会の儀式であり、宝塔~二仏並座~付属が示されている。書かれているのは主題を囲む神仏の名前と十界の衆生である。法華経の見宝塔品第十一~嘱累品第二十二を構成する(PDF「法華経概略図/虚空会の儀式」)。
儀式を「見て」悟れるのか? 塔を「見て」悟れるのか? そもそもブッダが法華経を書いたわけではない。成立年代に関しては諸説紛々の状況が続いている。
法華経は一度しか読んだことがないので記憶にないのだが、虚空会ギャラリー全員が悟ったというストーリーにはなっていないはずだ。マンダラを見て悟りが得られるのであれば、参加者は悟っているとの前提が必要である。
そして当然すぎるほど当然だが目の不自由な人にマンダラは意味をなさない。つまりマンダラは視覚情報を伝えるものでしかない。日蓮にとって出世の本懐が虚空会の図案化であったとすれば、悟りからは懸け離れているように思われる。
前にも書いたが私の父は「我が身宝塔なり」と覚知した経験があるのだが、具体的なことは「ゆっくり題目をあげろ」としか言わなかった。父に目立った変化は感じられなかったが、小さな出来事に強くものを感じるような言葉を発するようになった。
悟りとはそんなレベルではない。悟った瞬間に世界は一変する。そこから独特の表現やスタイルが生まれる。
日蓮は「観心の本尊」と説いたが、後期仏教(いわゆる大乗)のテキストを解釈し直しただけで、新しい光を放ったようには見えない。そもそも悟った者がテキストに依存することはないのだ。悟りとは諸法無我を悟るのだ。ブッダと肩を並べようとする日蓮の姿勢(三国四師)に悟りの輝きを感じることは難しい。
ニルヴァーナ(涅槃)とは情報の否定である。煩悩といっても情報の入力と反応(出力)なのだ。無記もまた情報の否定といってよい。真理とは必ずしも答えではないのだろう。
創価学会の教学は通俗的だ(文字曼荼羅 6 相貌について先生の指導)。しかしながらマンダラに囚われすぎるとテクニカルな落とし穴にはまってしまう(自我偈随想 第十三 浄土の人々 二佛並座の成立とその意義 前段)。
現世安穏後生善処というキーワードも通俗に傾いている。たぶん鎌倉時代に貨幣経済が発達し始めたことと関係しているのだろう。
日蓮のマンダラは「読む」から「見る」への転換であった。確実に言えることはそれくらいだ。悟りとどう結びつくのかはわからない。
・日蓮の文字マンダラ
釈迦多宝二仏並坐像|根津美術館 https://t.co/DXOuBuiJhv pic.twitter.com/djaG7UKhMy
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年9月22日