ここには本尊開眼と同じ問題がある。「開眼前と開眼後に何が変わったのか?」と同じく「謗法でない時と謗法になった時と何が変わったのか?」というテーマだ。しかも謗法と言いながら、法基準ではなく組織権力が謗法の認定基準となっている。
かつて創価学会はブッダをも否定していた。釈迦仏法を「古いカレンダー」と称し、現代に効力はないと言っていたのだ。白法隠没に対する誤解であったわけだが、学会員はものを考える力を奪われているため誰一人疑問に抱くことはなかった。
また創価学会は五座三座の勤行を方便品・自我偈に省略した。これまた教義変更といってよい。多くの学会員は心ひそかに「ラッキー♪」と思った(笑)。私もその一人だ。柏原ヤスは言った。「池田先生は間違っている。戸田先生は五座三座は絶対だとおっしゃっていた。勤行を省略するなんてとんでもない」と。
今回の教義変更は戸田門下生が絶滅したことを見計らった上での措置だろう。ま、あと30~40年もすれば池田門下生もいなくなる。その時どのような教義変更をするのかね?
「もうそろそろ、マスゲームの一員であることに喜びを覚えるのは卒業して、自分で何か表現したらどうだ?」と私は言いたい。
その唐揚げは、唐揚げの形をした別の何かかもしれない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 12
その仕事は、労働の形をした搾取なのかもしれない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 12
その宗教は、信仰の形をした詐欺なのかもしれない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 12
認知の歪みを自覚しない人は何らかの形で既に騙されていると言ってよい。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 12