・「先輩からの手紙」に思うこと 1
・「先輩からの手紙」に思うこと 2
・「先輩からの手紙」に思うこと 3
・「先輩からの手紙」に思うこと 4
・「先輩からの手紙」に思うこと 5
・「先輩からの手紙」に思うこと 6
・「先輩からの手紙」に思うこと 7
・「先輩からの手紙」に思うこと 8
・「先輩からの手紙」に思うこと 9
・「先輩からの手紙」に思うこと 10
「総合人間学の共通のテーマ」も今となっては古い。だが1998年に書かれた事実を思えば卓見といえよう。例えば(1)の「バーチャル性」という言葉の使い方が危うい。ま、当時の手垢(てあか)にまみれた言葉のひとつだ。現実とは外界における出来事を指すのではなく脳内――あるいは感覚器官――に存在するのだ。例えば電話は音声を電気信号に変換したものだが、誰もこれをバーチャルとは言わない。映画も本も音楽CDもバーチャルなものである。バーチャルリアリティ(仮想現実)から派生した言葉であるが、すべての情報は仮想性をはらんでいる。それをブッダは五蘊仮和合(ごうんけわごう)と示した。
赤い色が同じ赤に見えているかどうかは検証しようがないのだ。しかも認知そのものに常にバイアス(歪み)が掛かっている。我々が外界の情報を正確に受け取ることは不可能なのだ。目に映る世界はすべて過去のものだ。光速度の分だけ遅れがある上、人間の知覚が0.5秒遅れで機能するためだ。
「集団無意識や神話の及ぼす影響」に触れているのは鋭い。現在では集合的無意識の存在よりも、脳の推論システムに基づく論調が多い。個人的には推論というよりもアナロジー(類推)の方が相応しいと考える。
「一個の人間の脳の成熟をどう図っていくのか」――敢えて別の言い方をすれば「情報処理」の問題である。
さて、このように考え続けて、かなりの年月が経ちましたから、もはや学会とは、はるかに離れた地点にきてしまったのだと思います。聖教も大白も、友人宅や実家にたまに行ったときに眼にする位で十五年位は読んでいないのではないかと思います。
つまりこの先輩は細井vs.池田紛争の前後で犀の角のようにただ独り歩んでいたことになる。まったく恐るべき人物だ。見える人には見えるのだろうが、その高みに至る人は稀だ。
特にここ四、五年前から「創価学会運動の歴史的使命は終えた。人格の成熟という仏教本来の目指したものから論ずれば完全に道を外れてしまったし、どうやら始めから理解していなかったようだ」と思うようになって(後略)
阿部vs.池田紛争で完全に見切りをつけたということなのだろう。「創価学会運動」とは何か? 結果的に見れば「信仰をテコにした政治運動」であった。学会組織は人事を再重視するが、中堅幹部の人事が国政選挙に向けて組まれることからも明らかだ。大衆福祉、自民党のブレーキ役という点で公明党が一定の成果を上げたのは事実である。しかし国民の10%程度を公称会員数としている割には獲得議席が少なすぎる上、政治力がなさすぎる。やはり資金力の問題もあるのだろう。米国のユダヤロビーと比較すれば一目瞭然だ(※ユダヤ系アメリカ人を参照せよ)。
つまり創価学会は民衆を組織することには成功したが、政策実現には失敗したと私は考える。公明党が政権与党入りした大きな目的のひとつは国税庁対策であった。立党の精神は既に公明党議員の革靴の下で泥にまみれている。
もう一点だけ。私はブッダの教えの目的が人格成熟にあったとは考えない。徳や人格を重んじるのはソクラテスや儒家(じゅか)、ストア派の思想である。ブッダが説いたのは自由であった。それは欲望や自我や死からも解き放たれた真の自由であった。