主張は相手をコントロールしようとする。相手の話に耳を傾ける姿勢はない。一方、対話は傾聴を意味する。政治は駆け引きではあるが、対話の可能性は残されていると思う。ただし現状の政党政治では無理だろう。互いが傾け合う耳と耳との間にしか対話空間は存在しない。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月12日
対話とは「問う」ことである。だがそれは「答え」を用意した上での問いであってはなるまい。ただ問う。真摯に問う。ソクラテスの如く。古い答えを抱え込んでいる人々は対話ができない。彼等は他人に答えを示すことが対話だと勘違いしている。正義は教条化され、それぞれの旗の下で群れをなしている。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月12日
ここに対話の精神がある。/真の懐疑は青春のものでなく、むしろ既に精神の成熟を示すものである。青春の懐疑は絶えず感傷に伴われ、感傷に変ってゆく。(『人生論ノート』三木清)http://bit.ly/drnwjB
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月12日
・三木清