2021-08-24

「空」の思想

 このように、バラモン教では、自我を抹殺することによって死の恐怖から逃れようとした。そのために肉体を痛めつける苦行をおこなう。このような考え方に疑問をもったブッダによって、紀元前400年頃に唱えられたのが「空」の思想である。
 ブッダはブラフマンの存在をも否定して、いっさいのものを相互の関係としてとらえた。この世界は主客未分で実体がない。その唯一全一性をわれわれは実感として把握しなければならない。現象は、実体がないことにおいて、いいかえると、あらゆるものと関係し合うことによってはじめて現象として成立しているのである。
 したがって、現象を見すえることによって、いっさいが原因と条件とによって関係し合いながら動いている縁起の世界を体得することができるはずである。たとえば、この「私」という現象を動かないものとと仮定して、他との関連を見るとしよう。そのとき、「私」という現象が、つねに「私」でない他のものたちによって外から規定されつつ、現在の「私」とはちがった「私」、「私」でない「私」になりつつあるということが理解される。

【『われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学』柳澤桂子〈やなぎさわ・けいこ〉(草思社、1997年/ちくま文庫、2010年)】

 同時期に読んだ『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版』(シェリー・ケーガン:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳、文響社、2019年)よりも、こちらの方が上だと思う。柳澤の名前は『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』で知っていたが、さすがに多田富雄の相手をするだけのことはある。

 1990年代といえば池田がまだブラフマン思想から脱却できていない頃である(宇宙即我)。ストレートな仏教理解は科学者ならではの合理性から導かれたものだろう。

 創価学会員の中で縁起や諸法無我を理解している人が果たして何人いるか?

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