・三島由紀夫と永山則夫
「家族そのものが業である」の続きを。私が親子関係の束縛を強く意識したのは最近のことである。2冊の本の影響が大きかった。紹介するのが面倒なので書評ページのリンクを貼っておこう。
・血で綴られた一書/『生きる技法』安冨歩
・子は親の「心の矛盾」もまるごとコピーする/『子は親を救うために「心の病」になる』高橋和巳
安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉は東大教授で私と同い年である。彼が明かした実母との確執は「静かなる虐待」に基づいており、縁が切れるまでに至る。なかなか書ける事柄ではない。「書いた」あるいは「書けた」という事実が既に過去の感情から離れたことを示している。我々にとっては「話す」行為も同様に考えてよい。「話す」は「離す」に通じる。
二度目の書評(「心理的虐待」)で私も「親から愛されていなかった」と書いた。これだってね、結構勇気を必要としたものさ。安冨の勇気が私に伝染したのだろう。
そして高橋本の書評では「親に褒めてもらうことが殆どなかった」と書いた。
様々な本を読んできてわかったことだが、良家の良家たる所以(ゆえん)は「子を叱らない」ところにある。たぶん家格や親の振る舞いを通した枠組みが上手く機能するのだろう。天才が育つ環境も同様で親が叱った形跡は全く見られない。
小学3年の時、人生を変える出来事が二つあった。一つは学級代表の選挙で私に2票入ったことで、もう一つは前にも書いたがドッジボールでファインプレーをしたことだった。2年生になるまで私は転校を2回経験していた。声と体は大きかったが比較的おとなしいタイプの子供だった。2票にはつくづく驚かされた。「誰だろう?」と考えるだけで胸がドキドキした。自分をそんな風に見てくれる同級生が二人もいることに私は自信を見出した。ドッジボールのファインプレーは運動神経の開花ともいうべき瞬間で、初めて誘われた野球の試合でも私は同様のプレーをした。もちろん、やんややんやの大喝采だ。
で、小学4年になって私は学級代表となった。もう驚きはなかった。たった1年で私は大きく変わった。卒業まで学級代表を続けたのは私一人である。成績もよくなり、おまけに字まで上手になった。
私の自我は小学生時代に形成された。今日に至るまでほぼ変わっていない。それが証拠に小学生時代の友人からも「お前は全然変わっていない」と必ず言われる。どれくらい変わっていないかというと小学校時代のギャグや物真似を今でもやっているのだ。
どんな親であろうと子供にとっては「大人のモデル」となる。たとえ反面教師にすることが成功したとしても飽くまでマイナスに作用しただけのことで、親という基軸を巡る反応であることに変わりはない。
私は愛されてこなかった。だからこそ人の心を敏感に察知できるようになった。これは自慢でも何でもないが私は自分でもびっくりするほど親切だ。私の額には「ミスター親切」と刻印されている。
ところがである。最近も親切三昧の生活をしており、フト気がついた。「ひょっとして親からしてもらいたかったことを俺は他人にしているだけではあるまいか」と。往々にして踏み込みすぎて相手との距離が異様に近くなるのもそのためだろう。
一切のモデル(原型)を打破したのが「仏」という概念であったのだろう。旧約聖書が偶像崇拝を禁じたのは卓見であるが、連中は「神」というもっとでかい偶像を造ってしまった。