2018-11-15

諸国家を超えた正義の視点は成り立つのか?

 ・諸国家を超えた正義の視点は成り立つのか?

『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政

 当時の戦勝国がぶつかった問題は、ナチスドイツが軍事的な要請からではなく、それとはまったく無関係に600万のユダヤ人、50万人のジプシー、200~300万人に及ぶ東欧諸国の人々を集団収容所で殺戮(さつりく)した事実が明らかとなり、その計画的な大量殺人を見逃(みのが)すわけにはいかないという端的(たんてき)にその一事であった。そこでまったく新しい人道に対する罪 Crime against Humanity という名における事後法承知の措置(そち)がとられたのである。ニュルンベルク裁判は、勝者の一方的な報復裁判といわれた東京裁判に比べれば、今述べた事情からはるかに多く普遍的正義の立場に立っていると、自己弁解する余地がありうる。ナチスドイツの民族的絶滅政策が通例の戦争犯罪とは異なる、弁解の余地のない惨劇であったがゆえに、戦勝国側は日本に対するのと違って、一義的な正義の立場をとりやすかったためと思われるからである。
 しかし、ニュルンベルク裁判を可能にする正義の視点とはいったいなんであろう。諸国家を超えた正義の視点は、はたして成り立つのか。 Humanity に当たるドイツ語 Menschlichkeit は人道であると同時に「人類」の意味である。humanity も humankind の意味であり、まさに「人類に対する罪」と訳されるべきだろう。本章の冒頭に掲げた「人類の法廷は可能か」以下の一連の問いがまさにここで初めて大規模な形式で地上に提起されたのだった。
 しかしここで立ち停まってよく考えていただきたい。その正義の視点も、しょせんは戦勝国の力の結果であった事実は争えない。ドイツは力によって沈黙させられたのである。それが民主主義の勝利、理性と善の勝利であったなどというのは作り話であって、力が一定の効果を収めたあとの結果にすぎない。

【『決定版 国民の歴史』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(文春文庫、2009年/単行本は西尾著・新しい歴史教科書をつくる会編、産経新聞社、1999年)】

 百田尚樹の『日本国紀』と併せて読むといいだろう。蒙が啓(ひら)かれる読書の醍醐味を味わうことができる。

 西尾幹二は毀誉褒貶の多い人である。私が注目したのは福島原発事故の時だった。ネット番組の座談会で「これまでは原発推進に賛同してきたが反対せざるを得ない」と言い切ったのだ。武田邦彦も同様だが素直に過ちを認める姿勢は真理を探究せんとする学者の本領から発揮されたものだろう。「君子(くんし)は豹変(ひょうへん)し、小人(しょうじん)は面(おもて)を革(あらた)む」(『易経』革卦〈かくか〉)とはこのことである。多くの場合、思想や立場、所属組織などが邪魔をして自己の主張にしがみつくタイプが多い。

 西尾はまた見るからに傲岸不遜な印象を受けるが実は情の人である。無名の西尾に注目し表舞台に引っ張り上げたのは三島由紀夫だった。二人はたった一度だけ会った。西尾はその出会いをしっかりと心に置いた。三島が自決すると進歩的文化人は時代錯誤も甚だしいと声の限りを尽くして嘲笑した。西尾は文学者としてペンをもって三島を擁護した。著名な評論家に対しても恐れることなく真っ向から批判し抜いた。

 東京裁判の目的は日本を悪役に仕立てることで原爆ホロコーストと東京ホロコースト(東京大空襲)で無差別に非戦闘員を殺戮した米軍の罪を隠すことにあった。更に白人帝国主義を終焉に至らしめた日本を二度と立ち上がることができないようにしておく必要があった。いわば第二次世界大戦後の日本のシナリオが作成されたわけだ。GHQは7年間の占領で完全に日本から牙を抜いた。

 諸国家を超えた正義の視点が成り立つことはない。だから国家は戦争という手段を手放さないのだ。戦争は外交の延長に位置する。人類の歴史は戦争の歴史である。我々は戦争が大好きなのだ。この事実を認めずして平和を説いても意味がない。学校からいじめがなくならいのはなぜだ? いじめが好きだからだよ。

 結論――「諸国家を超えた正義の視点」から戦争は行われる。

決定版 国民の歴史〈上〉 (文春文庫)
西尾 幹二
文藝春秋
売り上げランキング: 142,183

決定版 国民の歴史〈下〉 (文春文庫)
西尾 幹二
文藝春秋
売り上げランキング: 270,287