2015-07-17

創価学会の本質は「宗教界における共産党」的役割にあった

 と思われる。最初は「似ているな」という程度の印象であった。組織拡張のあり方が酷似しているためだ。左翼用語と創価用語を並べると分子:活動家、細胞=ブロックなどは同義として考えられるし、ダラ幹・総括・一点突破全面展開に至っては創価学会で流用されている。理論武装も左翼用語である。「打破」とか「粉砕」という言葉を好むのも一緒(笑)。

 昨年から日本の近代史に関する本を読み込んでいるのだが、ようやく私は理解することができた。左翼の目的は「天皇制(←これも左翼用語)を打倒し、日本の価値を徹底的にこき下ろす」ところにあり、これをもって左翼の定義とすることができよう。戦後、獄につながれていた共産党員を解放したのはマッカーサーであった。左翼はマッカーサーを「解放者」として称(たた)えた。

 戸田城聖もまたマッカーサーを「梵天」として称えた。戸田は利益論を掲げて大折伏行進を推進したがここにはプラグマティズム的な方向に運動の舵を切ったことが窺える。

 キッシンジャー会談(1975年)では確実に創価学会の政治的方向性を質(ただ)されたことだろう。大東亜戦争敗北をどう受け止めるかも問われたことだろう。そしてキッシンジャーは「我々の邪魔をしなければアメリカ国内での布教には目をつぶる」くらいのことを匂わせたに違いない。アメリカ創価学会の発展にキッシンジャーが関与しているのは事実である。詳細についてはトップシークレットのため書くことができない。

 創価学会は一貫して首相の靖国参拝に反対してきた。ただし戦略的な批判をするようになったのは宗教法人法改正の頃からだろう。

 1952年(昭和27年)6月、日本弁護士連合会が「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出。戦争受刑者釈放を求める国民的な運動が広がり、実に4000万人の署名を集めた。15歳以上の労働力人口が5744万人の時代である(総人口は約8600万人)。これによって翌1953年(昭和28年)に「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が衆議員で可決される運びとなる。労働者農民党を除き、旧社会党・共産党も賛成した。戦犯は釈放され、遺族年金も支給されることとなる。

 余談になるが辛くもA級戦犯を免れた天才軍人・石原莞爾〈いしわら・かんじ〉は極東軍事裁判酒田法廷にリヤカーで運ばれながらも毅然とした態度で望み、傍聴した朝日新聞記者は感極まって泣いている。石原はアメリカ人記者に囲まれ「A級戦犯はペリーである」と気を吐いた。石原と親交のあった柔道家・牛島辰熊〈うしじま・たつくま〉は弟子の木村政彦を使って、日本の戦争を阻止するために東條英機を暗殺しようと目論んだ(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也)。

 近代日本のアイデンティティは天皇陛下と靖国神社である(『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』中西輝政)。創価学会は天皇陛下に対しては異を唱えるわけではないが、そうかといって重んじているわけでもない。

 1963年に刊行された『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよしを読むと左翼と創価学会の親和性が理解できる。鶴見俊輔は谷沢永一が「『ソ連はすべて善、日本はすべて悪』の扇動者(デマゴーグ)」と批判した(『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』)進歩的文化人の一人だ。彼らは「大衆糾合」という運動性が似通っているところに共感を示したのであろう。

 陳腐な言い方をしてしまえば、知識人は共産主義に向かい、生活者は創価学会に向かったのが昭和30年代であったと思われる。