「日蓮云く各各さわがせ給うなべちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か」(「種種御振舞御書」)。真蹟なし(「御遺文の真偽問題 その問題点への私見」勝呂信靜を参照せよ)。
尚、本文は「manjusaka225の仏法資料庫」からコピーさせてもらった。何と音声ファイル付き。ちょっと幼さが残るが中々上手である。私は読み方についてはかなりうるさいのだ。
日蓮のセリフはまだまだ続くが省略する。前にも紹介した通り(松葉ヶ谷草庵跡)、これが事実であったとすれば多分「下馬」の交差点での出来事と思われる。
日蓮は「神の存在」を信じていたのだろうか? それとも周囲の人々に対するパフォーマンスだったのか? たぶん信じていたのだろう。他の遺文にもたくさん書いてあるからね。
時代の制約とは具体的には「情報の限界性」を意味する。果たして日蓮の悟りはそこを超えたのだろうか? 私は超えていないと思う。超えることができていればテキスト主義には陥らなかったはずだ。テキストという伝統(=変質した中国仏教)を踏襲したところに日蓮の限界性を見る。