2015-02-24

本尊は鏡か?

 譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。(一生成仏抄)

 御義口伝に云く法華経に鏡の譬を説く事此の明文なり、六根清浄の人は瑠璃明鏡の如く三千世界を見ると云う経文なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり(御義口伝)

 御義口伝に云く法界に立て礼拝するなり法界とは広きに非ず狭きに非ず惣じて法とは諸法なり界とは境界なり、地獄界乃至仏界各各界を法る間不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り上慢の四衆は四衆の界に法るなり、仍て法界が法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり云云。(御義口伝)

 日蓮遺文は創価学会版より引用した。いずれも真蹟はない。流麗かつ巧妙な文章である。続いて真蹟より引用する。

 夫れ天地は国の明鏡也。今此の国に天災地夭あり。知るべし、国主に失ありと云う事を。鏡にいかべたれば之を諍うべからず。国主小禍のある時は天鏡に小災見ゆ。今の大災は当に知るべし、大禍ありと云う事を。

 疑て云く いかにとして汝が流罪死罪等、過去の宿習としらむ。
 答て云く 銅鏡は色形を顕す。秦王験偽の鏡は現在の罪を顕す。仏法の鏡は過去の業因を現ず。

 日月は四天の明鏡也。諸天定まりて日蓮を知り給ふか。日月は十方世界の明鏡なり。諸仏定めて日蓮を知り給ふか。一分も之を疑ふべからず。

 あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし。

 問て曰く 出処既に之を聞く。観心之心、如何。
 答て曰く 観心とは我が己心を観じて十法界を見る。是れを観心と云う也。譬ば他人の六根を見ると雖も 未だ自面の六根を見ず自具の六根を知らず。明鏡に向う之時 始て自具の六根を見るが如し。設い諸経之中に所々に六道竝びに四聖を載すと雖も 法華経竝びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば 自具の十界百界千如一念三千を知らざる也。

 我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。

 今日蓮一代聖教の明鏡をもつて日本国を浮かべ見候に、此の鏡に浮んで候人々は国敵仏敵たる事疑ひなし。一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人のかたちをばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮かぶるのみならず、心をも浮かべ給へり。心を浮かぶるのみならず、先業をも未来をも鑑み給ふ事くもりなし。

 此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門下の明鏡也。謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。

 真蹟からは日蓮が法華経を明鏡に喩(たと)えていることがわかる。先に巧妙と書いたのは他でもない。法華経→本尊という変質があるためだ。プロパガンダの技術としては相当レベルが高い。高等戦術である。

 感覚器官(六根)を鏡に例えるのは認知科学的視座であり、仏教の先進性が窺える。

 単純に考えてみよう。思想は鏡だろうか? 違うね。ま、定規といったところだろう。ブッダは鏡だろうか? これも違うと思う。ブッダという存在は「窓」だ。これが本日の結論である。

 ブッダ自身は自分の教えを「筏」(いかだ)に譬(たと)えている。