2015-12-16

『創られた「日本の仏教」神話』を待望

 新奇なスタイルの舶来品がモデルとなり、その翻訳を経て、さらにその形式を模した国産品が作られる。国産化の過程では、既知の要素と組み合わされることで大衆的な支持が獲得される。やがて「舶来」という徴(しるし)が失われ、自明のものとして土着化する。さらに新たな種類の舶来品が入ってくると、今度はそれを下敷きに同じサイクルが繰り返され、その一方で、その前の種類の舶来品に基づいた国産品は相対的に古臭い、陳腐なものとなり、場合によってはそれを肯定的に読み替えて「日本的」「伝統的」という解釈が与えられる。
 この循環的な過程は、もちろん音楽以外に関しても適応可能であり、それゆえに別段特別な理論的主張というわけではないのですが、少なくとも、日本の大衆音楽および文化全般が単線的に「西洋化」となり「アメリカ化」してきた、とする大雑把な発想を相対化する上で念頭においておくべき視点だと考えます。

【『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』輪島裕介(光文社新書、2010年)】

 著者は1974年生まれの大学非常勤講師。まだ読み終えていないのだが、いやはや面白い。どんな分野であれ深く掘り下げた研究は万般に通じる真理をはらむものだが、本書に比するものとしては渡辺京二著『逝きし世の面影』、水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』あたりか。本書の魅力は該博な知識を軽妙に語るオタク性にあるのだが、恐るべき下半身の力でもって学術性を堅持している。宗教分野の書籍はおしなべて視野が狭く、タコツボ教学のプロパガンダに堕すか、あるいは思想・哲学からのテキスト引用で我が身を飾るかといった色合いが濃い。例外的な傑作としては架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉著『完全教祖マニュアル』があるが、こちらはサブカル色が強い。「演歌」という言葉はもともと自由民権運動において政府批判を述べる「演説の歌」に由来するが、歌謡における「演歌」というジャンルが確立されたのは昭和40年代に入ってからのことだという。風俗における歴史修正(「演歌は日本人の心」)がかくもたやすく行われ得るとすれば、動きやすい人心を操作することは我々が考えるよりも容易に行うことが可能なのだろう。私は歴史改竄や教義改竄には3世代くらいの経過を必要とすると考えてきたが、媒体の技術革新(ラジオ~レコード~映画~テレビ)が情報伝達~書き換え~上書き更新に劇的な加速を与える。とすれば「インターネット時代の宗教」は果たしてどのような姿をしているのだろうか? 宗教学者による『創られた「日本の仏教」神話』を待望する。功罪よりも、輸入仏教(平安仏教)がJ-仏教(鎌倉仏教)となるに至る様相を捉えることが重要だと思う。

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)