2020-03-29

創価学会青年部反戦出版委員会本と南京大虐殺の証言

・赤星義雄 (歩兵13連隊二等兵)は1979年、創価学会青年部反戦出版委員会本で、14日下関の揚子江岸で「広い川幅いっぱいに、数え切れないほどの死体が浮遊し」「5万人以上」「ほとんどが民間人の死体」が流れていた、と証言。板倉由明は、流速は時速数キロとみて数時間たてば南京から見られなくなる。水は濁っており一部しか水面上に出ていない水死体を遠望して軍民別、年齢などが解かるわけがない。下関は中国軍によって焼き払われ住民は避難していたと思われる、城門は9日に閉鎖され住民は出入りできない状態だった。揚子江上にいた米、英、日の艦船、連絡線乗組員、便乗の新聞記者、碇泊場司令部の日記にはこのような記録がない、等の疑問点を挙げた。

・高城守一 (輜重6連隊小隊長)も同創価学会青年部反戦出版委員会本で、南京に2日いた。1937年12月14日下関(シャーカン)の兵站まで物資を取りに行った。下関には数隻の輸送船、護衛艦も見えた。揚子江に「民間人と思われる累々たる死体が浮かび」「十名前後のクーリーが射殺されるのを目撃した」「おびただしい糧秣が揚陸されていた」と証言。しかし、板倉は、軍艦の突入が12月13日15時40分で、「軍艦以外の貨物船などが南京まで運航するのは、機雷除去が進んだ18日以降であり、14日というのはおかしいと批判。なお碇泊場司令部勤務の梶谷日記は日付と業務を記してある。

・中川誠一郎(仮名、野砲六連隊) も同創価学会青年部反戦出版委員会本で中華門攻撃に加わり陥落後、「南京城を素通りして、ただちに蕪湖へと向かった」。途中の下関で、延々と黒焦げの何百台という自動車と何百人にのぼる住民の死体を見た。「『この肉もうまいぞ』と出された肉を何人かの兵が食べた」。それは中国兵の大腿部の肉だったと後で聞かされた、と人肉食を証言した。秦郁彦はこの証言者の「老農夫をなぐり殺したシーンも見た」「二百人近い敗残兵・・・“捕虜をつれて戦ができるか”と一喝され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた」回想を、下関釈放捕虜の行く末だった可能性が高いとして採用。中華門は南京城の南端で、蕪湖は南京の南南西90キロ辺りにある。下関は南京の北西端城外だから、素通りしたら下関は通らない。応召し(兵歴記載無し)砲の取扱い訓練も経ずに6日後には分隊長となり、蕪湖では野砲を離れ宣撫班の班長になったと軍歴は不自然である。

南京事件の証言 > 虐殺があったとする証言:Wikipedia

 秦郁彦が採用したのは『南京事件 「虐殺」の構造』(中公新書、1986年/増補版、2007年)である。少し前に読み終えたのだが本書にも誤った情報が掲載されているようで、つくづく歴史の難しさを思い知らされた。「南京で虐殺はあったが、中共が主張する南京大虐殺は真っ赤な嘘だ」というのが今現在の私の認識である。