宗教にはまるヤツは、アホだ。自分の日常の欠けている部分を、他人に埋めてもらいたがっているのだ。現実に打ちのめされているから、現実じゃない力がこの世にあることを信じたいのだ。自分の頭で未来を考えるのが恐ろしくて、誰かに決定を委(ゆだ)ねたいのだ。教祖様だのに入れこんでしまうのは、信じている自分を信じたいからだ。関係ない人間を勧誘したがるのは、信じている自分を人に認めてもらいたいからだ。
【『砂の王国』荻原浩〈おぎわら・ひろし〉(講談社、2010年/講談社文庫、2013年)】
そんな風に考えていた若者が新宗教に取り込まれる。荻原浩といえば『明日の記憶』が広く知られているが、私は二度挫折している。一方、本書は今年に入ってから再読した。ホームレスを教祖に仕立てる物語である。「失われた20年」が社会を覆い尽くした不安な様相を巧みにすくい上げている。社会に認知される教団になるまでの展開もドラマチックでありながら説得力がある。マーケティングや心理学の手法もちりばめられている。
「教祖は作ることができる」――本書が示した結論は、実際に著者が文字を通して教祖を造形したことで証明されている。荻原が文字ではなく「言葉」でそれを表現すれば、彼は教祖となれるのだ。
「教祖」と聞けば人は胡散臭さを感じてしまうことだろう。では、ドラえもんでどうだ? あるいは半沢直樹でもいいぞ。私が言いたいのは「偶像」(アイドル)ということだ。神話や教義に描かれるのは偶像(モデル)である。神仏もまた偶像といってよい。語られた偶像は存在感をもって心に居据わる。それが幽霊や宇宙人であったりする場合もある。例えばこんな話がある。
・「キーファー・サザーランドとの共演は最悪だった」──「24」俳優が告白 | GQ JAPAN
ジャック・バウアーを演じたキーファー・サザーランドがアル中(差別用語)だったというのだ。その上大物ぶって共演者に迷惑をかけていたという。『24 TWENTY FOUR』はシーズン8+リブ・アナザー・デイまであるが私は二度視聴している。往々にして偶像は虚像であることが多い。
「砂の王国」は潰(つい)える。数千人規模にまで拡大したが、青写真を描いた主人公の精神が完全に行き詰まってしまう。
青少年が大好きな女性アイドルのポスターを見つめる時、自分を客観視することは難しい。瞑想はファナティシズムの正反対に位置する。
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