・敗戦に打ちひしがれる日本国民をいち早く励ました石原莞爾
8月31日の東亜連盟宇都宮支部の講演会が、石原の第一声だった。誰もが、これからの日本はどうなるのか、不安だった。関東の会員たちは、あちこちから宇都宮に集まり石原の講演を聞きにきていた。その数は5000人程で、会場に入れない者は外で聞いていた。
この日の石原の第一声は、「皆さん、敗戦は神意なり!」だった。そして、
「負けてよかった! 勝った国は今後、益々軍備増強の躍進をするであろうが、日本は国防費が不用になるから、これを内政に振り向ける。戦争で蒙った国土の荒廃は、10年で回復しますよ!」
「どうです皆さん! 何も悲観することはありません。後のカラスが先になるんです。敗れた日本が世界史の先頭に立つ日がくるのですよ!」
「アメリカが、日本から賠償として取り立てたいなら、美術品でもなんでも持っていくがよい。どうせ世界は一つになるのだから、アメリカに日本の美術館が立ってもいいじゃないですか。丁寧に保存もしてくれるでしょうから。あとで我々が見に行けばいいじゃないですか。焦土の中で、世界に先駆けて文化的な密度の高い平和社会を創るのです。人間、裸ほど強いものはありませんよ!」
この時、会場内では、すすり泣く声が聞こえた。床を足でならす者もいた。
この日の第一声から、石原は東北地方の各支部を回って、演説して歩いた。その逆境に立ち向かう姿は、石原が信奉する日蓮のようだった。まるで日蓮が石原に乗り移ったみたいだった。太いダミ声で、吠えるが如く話す石原の声は、マイクなしで外まで聞こえた。
【『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之(双葉新書、2013/双葉文庫、2016年)】
創価学会員は石原莞爾〈いしわら・かんじ〉と戸田城聖を比較してみるとよい。石原は戸田よりも一回りほど年長である。満州事変でその名を世界に轟かせ、二・二六事件では青年将校になびく軍首脳を尻目に、現場へ足を運んだ。小室直樹は「軍事的天才」と称賛を惜しまない。満州国の建国会議では日蓮宗の曼荼羅を掲げた。東京裁判の酒田出張法廷では一人気を吐いてみせた。昭和24年(1949年)死去。遺体を載せたリヤカーを引いたのは後に極真会館を立ち上げた大山倍達〈おおやま・ますたつ〉であった。
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