雪村いづみが「ひこうき雲」を歌っている。まずは聴いてもらおう。
荒井由実を聴き慣れている人にとっては少々違和感が残ることだろう。ところがどっこい実はこちらがオリジナルなのだ。ユーミンが歌手デビュー前に書き溜めた作品に目をつけた人物がいて、曲を知ったレコード会社の社長が雪村に提供した。因みにユーミンは14歳でスタジオ・ミュージシャン、15歳で作詞家、17歳で作曲家、18歳から歌手として現在に至る。
これで話は終わらない。雪村のレコーディングは諸般の事情があって日の目を見なかった。つまり商業ベースではユーミンが先駆けたことになる(Wikipedia)。
何を基準とするかによって対象の見え方は変わってくる。人は自分の価値判断や感情を疑うことがない。その強固なまでの基準を信念・思想・宗教と言い換えてもいいだろう。我々は自分の基準を保持し、しがみつき、堅固する。そして画一的なものの見方が人生を貧しくする。
「情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる」とエリック・ホッファーが指摘している(『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』)。宗教的な情熱は劣等感の裏返しである場合が多い。特に何らかの競争原理が働く教団ではその傾向が強い。善意のつもりで行われる布教にもメサイア・コンプレックスが隠されている。
我々は世界をありのままに見ることができない。常に概念を通して世界を歪める。緻密に感じる視覚情報も大半は脳で補正が加えられている。
感覚は好悪(こうお)に分かれ、感情は三毒に基づく。自分の基準を疑うことは至難の業(わざ)である。それを無明という。