2014-10-31

なにかをしていることが当然であるという集団


2014-10-25

日蓮と荀子

『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光

 ・日蓮と荀子

『香乱記』宮城谷昌光

 ここでいう孫子とは荀子のことである。日蓮は荀子の影響を受けていたのだろうか。

 笑われた呂不韋〈りょふい〉は目に慍色(うんしょく)をだした。
「怒ったか。では、問おう。孫子の教義とするものは何か。仁義などではなく、わかりやすい例を挙げてみよ」
「孫子曰(いわ)く」
「む……」
「学は已(や)むべからず」
「む……」
「青はこれを藍より取れども藍よりも青く、冰(こおり)は水これを為(な)せども水よりも寒(つめ)たし」
「ほう」
「また孫子曰く」
 男は黙ってしまった。
「高山に登らざれば天の高きを知らず、深谿(しんけい)に臨まざれば地の厚きを知らず、先王の遺言を聞かざれば学問の大なるを知らざるなり。さらに孫子曰く。神(しん)は道に化するより大なるは莫(な)く、福は禍の無きよりは莫し」

【『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1997年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

    

緑の革命はインドを救ったのか

ナショナル・ジオグラフィック

「緑の革命」と「心の革命」

緑の革命」を主導したのはロックフェラー財団で、実働部隊は穀物メジャーのカーギルとバイオ化学企業のモンサントである。

遺伝子組み換え多国籍企業と食料主権

【※字幕が表示されない場合は最下段の右から4番目の「字幕」アイコンをクリック】






緑の革命は失敗であった

2014-10-22

エボラって何? いまどうなってるの?

2014-10-20

江戸しぐさ批判

 最近よく目にする批判だが、私は批判によって江戸しぐさなるものを知った。で、江戸しぐさの宣教師を務める越川禮子〈こしかわ・れいこ〉という評論家は過去に潮賞ノンフィクション部門優秀作を授与(1986年)している。

2014-10-17

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「正義」を叫ぶ者こそ疑え

 間違わない組織なんてない。それは革命党でも会社でも宗教でも同じである。左翼の諸党派などは、そもそもの出発点から間違っているかも知れないのだ。しかし、自分たちは正しい、党は間違えない、それに反する者は反党分子である。正しい党員に革命的に鍛えあげるか、革命的に処分しなければならないと考えてしまう。
 正義を信じ、組織をつくってしまうと、かくも巨大な間違いを犯してしまうのが人間なのである。間違いを犯すから深みが増す、人間の可能性を高めるとは決して考えない。
 なぜか。「正義は我にあり」「我々は間違えない」という神話の中に生きている方が楽だからだ。自分は間違っているのではないか、今の方針より、よりましな方法があるのではないか、と常に自分に問い続ける苦しみを味わわなくて済む。つまり、「無謬性」とは単なる精神的怠惰の表れでしかないのだ。他者を圧殺する巨大な権力を生む怠惰である。

【『「正義」を叫ぶ者こそ疑え』宮崎学(ダイヤモンド社、2002年)】

 宮崎学はやくざ者の倅(せがれ)で、学生運動の武闘派左翼、解体屋、地上げ屋、週刊誌記者といった遍歴の持ち主だ。彼はたぶん昭和30~40年代の創価学会に郷愁のような感情を抱いている。もっと言ってしまえば、そこに共産党の理想的な姿を見ている。石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉の「今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。創価学会のほかは、患者さんに係わることができなかった」(『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』)という発言と似た視点を持っている。だからこそ現在の創価学会と共産党を批判する。池田に直接手紙を送っているほどだ。行間から大衆運動のシンパシーが立ち上がってくる。創価学会に対する理解は浅いが、主張そのものは極めて真っ当な正論である。共産党と創価学会は異母兄弟のようなものだと私は考えている。それゆえ共産党が創価学会化し、創価学会が共産党化することは必至であるといえよう。ここらあたりに政治と宗教を解くヒントがあるように思う。正義とは「教条」(ドグマ)である。そして正義が人を裁くのだ。

「正義」を叫ぶ者こそ疑え

2014-10-16

尋ね人 愛知県瀬戸市

 カトー建材工業株式会社
  〒489-0954 愛知県瀬戸市台六町532-4

 ここに勤務している創価学会員を知っている方はぜひとも情報をお寄せください。秘密厳守。謝礼なし(笑)。

2014-10-14

ブラック企業大賞「ヤマダ電機」問題がマスコミで報道されない理由

 創価学会と同じ手口だ。ブラック企業大賞とはね。学会本部から注意をしたらどうだ?

2014-10-13

THA BLUE HERB "PRAYERS"

 しみじみと泣ける。我々は死者を悼(いた)み、その死を悲しむ。やがて私も死ぬ。悲しむことに意味はあるのだろうか? ただ嘆き悲しむのではなく、生きる力に変えることができれば意味はある。Tha Blue Herbは好きなのだが、ボスの歌詞は言葉が過剰だ。私の胸を打つのは彼の真剣さ、ひたむきさなのだ。「祈り」という言葉がストンと腑に落ちる。岡真理の言葉(小説とは祈り)に匹敵すると思う。

大石寺の夏期講習会

 大笑い。時代の変化は激しい。

「週刊文春」が報じた創価学会・池田大作名誉会長の「病状」

 デマだったとはね。ま、事実を公表しないところに付け入る隙(すき)があるわけだが。

「週刊誌、オマエが言うなよ……」〜週刊誌ガセネタ誤報列伝(第2回/「週刊文春」篇)〜

2014-10-12

韓国併合や創氏改名の誤謬

創価学会の対外的な成果」の続きを。

 ボディブローと書いたのは他でもないが、池田の言説には韓国併合創氏改名に関する誤謬(ごびゅう)が目立つ。その自虐史観が今後、創価学会の足枷(あしかせ)となることだろう。

 慰安婦問題についても池田は韓国の立場を全面的に擁護している。

 ついでに書いておくと、創価学会は日中友好万歳路線をひた歩んでいるが、「米中接近後に日中友好が実現したことによって、孤立したソ連がアフガニスタンを侵攻するに至った」と菅沼光弘(元公安調査庁・調査第二部部長)は指摘している。既に創価学会と中国との関係を懸念する声が出始めている。



学校に例えてみる

 学校に例えてみよう。この学校とは義務教育ではない。高校や大学、あるいは専門学校と考えてもらえばよい。考えられる要素は次の通りだ。

 入学したばかり、進級中、留年、停学、退学、そして卒業である。私が問題にしたいのは退学である。

 自主退学と処分としての退学との二つがある。進むべき道を見出して学校を去った人に後顧の憂いはない。ところが「退学させられた人」や進路を見失った人々には学校への遺恨が形成される。ここから彼あるいは彼女たちは、学校の評価を貶(おとし)めることに力を注ぐ。その殆どは自分のマイナス感情を補完するものでしかない。つまり「変わることのない惨めな自分」への言いわけが批判という形で開陳されているのだ。

 卒業しない自由はもちろんあるが、やはり卒業することが望ましい。

 自分なりに一生懸命努力しているようでも、実はねずみ車をひた走るハムスターみたいな人々が多い。多すぎるよ。そのセンスのなさが致命的だ。

 これは「不勉強な君」への個人的なメッセージだ。

2014-10-05

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不二=アドヴァヤ

不二=アドヴァヤを辞典で調べてみると(1)
不二=アドヴァヤを辞典で調べてみると(2)~梵語辞典から~

悟りを理解するための3冊

 悟りを理解するためには以下の3冊を読めばよろしい。ブッダへの手引きとしてはアルボムッレ・スマナサーラが一番よいのだが、私の直観では彼が悟っているようには見えない。所詮、解説者だ。この3冊が示唆する内容は仏教といっても過言ではなく、日本のどの仏教団体よりもブッダに近い感覚を秘めている。思想ではない。感覚だ。

2014-10-01

戸田城聖の悟りに関する覚え書き その二

戸田城聖の悟りに関する覚え書き その一

 思索をもう少し伸ばしておこう。

 戸田城聖は獄中で無量義経の「三十四の非ず」を身で読んで悟りに達したとされている。相前後して「我、地涌の菩薩なり」との自覚に至る。創価学会ではこの二つを戸田の悟達としている。この思想が池田に受け継がれ「生命尊厳」を標榜するようになる。生命至上主義・生命原理主義と言い換えてもよかろう。

『無量義経』は中国で作られた偽経(菅野博史)

「つまり、中国人仏教徒の誰かが、『法華経』の前に説かれたとされる「大乗経名無量義教菩薩法仏所護念」に仮託して『無量義経』を作ったということになる」と菅野博史は書いているが、そんな浅いレベルではないだろう。これはウパニシャッド最大の哲人・ヤージュニャヴァルキヤからの盗作なのだと私は踏んでいる。ヤージュニャヴァルキヤは「非ず非ず」と否定することでアートマン(真我)を表現した。だから創価学会が真我主義に陥るのは必然であったのだ。

 真の自己、アートマンは純粋の認識主体である以上「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)という方法でしか表現できない。「~である」と表現すれば認識の対象へと下落してしまうからだ。

心の哲学まとめWiki - ヤージュニャヴァルキヤ

 戸田は質問会で「亡くなった自分の娘に会ったような気がする」との旨を語っている。つまり戸田は自ら常見の立場を表明したに等しい。この私の批判は当然、日蓮に対しても向けられる。科学的に見れば証明できない以上、現代においては断見のスタンスをとるのが常識的だと思うが、ブッダは不断不常の中道を歩む。

 要は死後の生命が「有る」と考えても「無い」と考えても人間の悩みが尽きることはないのだ。それゆえに無記(沈黙)なのである。

 そして何にも増して問題なのは創価学会員の置かれた状況が生命尊厳とは無縁であることだ。もう戯言(たわごと)はいいから、まず配達員の賃金を上げろ。

心を外に放ってはならぬ


法華真言未分

 法義上では「守護国家論」「災難対治抄」「立正安国論」などによると「法華真言未分」の立場、意として唱えるところは「比叡山・大乗仏教復興」だったのであり、日蓮の内面では当時の天台宗・台密の諸宗兼学の思想を多分に継承していた。

日蓮ノート : 「不動・愛染感見記」一考 5

「徒党」の中にいる人間は知能指数が半分になる