2016-01-30

世界市民と国連中心主義

左翼に関する覚え書き
・世界市民と国連中心主義

「世界市民と国連中心主義」は創価学会と朝日新聞が好むキーワードである。朝日新聞の場合は「われらの祖国ソビエト」的な主張が隠されているのだろう。一方、創価学会の場合は東京裁判史観に便乗する格好で、戦前を軍国主義と位置づけ、東条英機による憲兵政治を国家悪と捉えることで、創価学会幹部の逮捕を美化した。「反戦・平和」というスローガンもそっくり左翼の受け売りである。かような視点に立って『小説 人間革命』を再読すれば、いくらでもその証拠を見つけることができるだろう。

 つい数年前まで「左翼・右翼という分け方にもう意味はない」と多くの人が思っていた。私もその一人である。ところがそうではない。特に左翼の場合、イデオロギーに基づくため歴史認識が決定的に異なるのだ。そして戦前戦後の日本をマルクス史観で読み解くことに一定の成功を収めた。しかしながら明治維新を単純な階級闘争で解くことはできない。なぜなら攘夷派も開国派も尊王・勤王という一点は共通していたからだ。

 創価学会が反天皇制を掲げたことはないが、かといって尊王の精神があるわけではない。ただ明らかなのは「尊王に対する不作為」であろう。

 日本という国家の成り立ちが『古事記』というフィクションに基づくのは確かだが、天皇陛下を中心に国家がまとまったのは歴史的事実である。ここに日本の特殊性がある。「始めに天皇ありき」なのだ。時に天皇は政権に利用されながらも、その命脈が途絶えることはなかった。

 私は日教組が強い北海道で育ったため天皇陛下のことなど眼中になかった。それが一変したのは東日本大震災のことである。被災者を慰める陛下の姿に感激を抑えることができなかった。自由といい平等といっても国家が与える(=保障する)ものだ。たぶん人類のコミュニティが国家を超えることはないだろう。国家が消失すれば歴史や文化も失われる。

 もちろん思想信条は自由だから、天皇制打倒を目指す人がいてもよかろう。ただその人たちが日本の歴史や文化を葬り去ろうとする企てを見抜く必要がある。

 側近幹部の前で池田は「オレは天皇よりも偉いんだ」と発言している。

2016-01-28

「言葉と、生きていく」聖教新聞




谷川●ところで、この座談会や寸鉄などについて「言葉遣いが強すぎるのではないか」「犬畜生とか、表現が差別的ではないのか」と心配する声が、たまにあるな。

原田●最近は、みんなよく分かってきて、ずいぶん少なくなってきたが(笑い)。

秋谷●だいたい「差別」と言うなら、あの信徒差別の日顕宗だ(爆笑)。

青木●その通りだ。文句があるなら、まず日顕宗に言ってもらいたい(大笑い)。そもそも、日蓮大聖人の御書は全編、これ「正義の怒り」だ。「悪への破折」じゃないか。それはそれは厳しい言葉で仏敵を呵責されている。

谷川●たとえば、このように仰せだ。
「蚊(か)蚋(あぶ)蝦蟆(がま)の法師なり」
「蝙蝠鳥(へんぷくちょう)のごとし鳥にもあらず・ねずみにもあらず」
「梟鳥禽(きょうちょうきん)・破鏡獣(はけいじゅう)のごとし」
「牛羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず」等々。

弓谷●「当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも毀(そし)るは糞犬が師子王をほへ癡猿(こざる)が帝釈を笑ふに似たり」等とも仰せだ。

【聖教新聞 2005-07-08付】

 文脈を無視した意図的な切り文であることについては「善無畏三蔵抄」に記してある。私は折を見て主要な学会批判本を読んできたが、その下劣さにおいて聖教新聞の紙上座談会にまさるものは一冊もない。ま、谷川某はここまで言い切ってしまったわけであるから、同じ目に遭うことはきっと覚悟しているのだろう。「悪口にまみれて、生きていく」聖教新聞。

人を嫌ったり、非難したりすることを自分に与えられた特権だと信じている人


 創価学会、日本共産党、在特会……。

2016-01-23

左翼に関する覚え書き

・左翼に関する覚え書き
世界市民と国連中心主義

 かつて知識人とは左翼を意味した。1960~80年代のこと。それに先行してGHQが日本の教科書から民族性の魂を抜き去った。マッカーサーは共産党員を獄から解き放ち、組合運動を支援した。民政局にはニューディーラーが参集していた。後に判明するがハル・ノートを作成したハリー・デクスター・ホワイトはソ連のスパイだった。

 日本共産党はもともとコミンテルンの日本支部として作られた(菅沼光弘、須田慎一郎『日本最後のスパイからの遺言』2010年)。32年テーゼ二段階革命論で左翼は絶対主義天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命を目標とした。そもそも天皇制という言葉自体が左翼用語で、天皇制打倒に関する最初の指示があったのは1923年(大正12年)であった。

 伊藤博文は西洋のキリスト教に代わる価値観として天皇陛下を国体の中心に据えた。これによって日本は立憲主義と中央集権が可能となった。かつて天皇が利用された歴史もあったが、江戸期の日本人は天皇陛下を尊敬していた。

 左翼の運動はプロパガンダ(宣伝工作)を表に破壊活動を行う。彼らは戦前の一切を否定する。戦後、多くの知識人がこれになびいた。後に進歩的文化人と呼称される連中は日本を徹底的に貶(おとし)め、ソ連・中国・北朝鮮を礼賛した。この流れは1990年前後まで続く。先日亡くなった土井たか子は「北朝鮮による拉致被害は産経新聞の捏造」と言い続け、更には被害者家族の情報を北朝鮮に報告した。

 真性左翼知識人の影響を受けた人々は「平和・人権・平等」といった価値観に染め上げられた。個人を重んじることで国家は軽んじられた。これがGHQ主導による戦後教育の中心軸である。アメリカは「強い日本」を心の底から恐れた。だから骨抜きにする必要があった。

「残存左翼」に操られやすいのが「うす甘いサヨクの市民グループ」であり、その周辺にいる「うす甘い戦後民主主義の国民」を十把一絡(じっぱひとから)げにして「サヨク」と命名したのが小林よしのりであった(『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』1998年)。私はこれを「心情左翼」と表現している。明確な意識を欠いたまま彼らは天皇制打倒に収斂(しゅうれん)されてしまう。




 左翼のプロパガンダとしてわかりやすい例を挙げよう。米原万里〈よねはら・まり〉の遺著となった『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋、2006年)は優れた書評本で傑作といってよい。しかし、である。なんと『お笑い創価学会 信じる者は救われない 池田大作って、そんなにエライ?』(佐高信、テリー伊東、光文社、2000年)を「意外に真面目な本だ」(文庫、227頁)と評価している。米原ファンでなくても理解に苦しむ部分だ。何も知らない人であれば佐高・テリー本に手を伸ばすことだろう。

 米原万里は本物の左翼であった。父親の〈いたる〉は共産党の代議士で、妹の夫は井上ひさしである。正真正銘の共産党ファミリーといってよい。米原は井上と組んで反米言論活動も行ってきた。

「ただの批判」ではないところに注意を要する。彼らの言論活動は共産主義革命に誘導する目的が隠されているのだ。

 その左翼が1960年代の創価学会にシンパシー(共感)を抱いた(鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし『折伏 創価学会の思想と行動』産報ノンフィクション、1963年)。ここに池田創価学会を解く一つの鍵があるように思う。

 牧口と戸田は民族主義であった。「教育勅語は最低の道徳である」との牧口発言に創価学会員の多くは批判的意図を読み取るが、道徳として容認している事実を見落としている。

教育ニ関スル勅語
教育勅語の口語文訳

 特高の取り調べに対して牧口は「天皇陛下も凡夫であつて……天皇陛下も間違ひも無いではない」と応じているが、これまた「陛下」という尊称を見逃してはなるまい。戸田も「青年は国士たれ」と叫んだ。

 一方、池田創価学会は国際主義に向かった。と同時に反権力・反国家的姿勢が強まる。そこに左翼は共感したのだろう。1990年代から目立ち始めた牧口研究は創価学会の平和主義を標榜する一種のプロパガンダであり、事実検証からは遠い位置にあると判断せざるを得ない。

 馬渕睦夫〈まぶち・むつお〉が『国難の正体 日本が生き残るための「世界史」』(総和社、2012年)でニューヨークの金融資本と共産主義を「国際主義」というキーワードで解き明かしている。ユダヤ人の脱国家思想が国際へと向かうというのだ。ソ連を建国したのもユダヤ人であった(元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌)。

 最近読んだものの中で『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 』(輪島祐介、光文社新書、2010年)が実に面白かったのだが、音楽に与えた左翼の影響まで描き切っている。

聞書 庶民烈伝』(潮出版社、1983年)の著者として創価学会員に知られる竹中労〈たけなか・ろう〉はアナーキストと称しているが、実態は左翼よりも過激な新左翼である。

2016-01-22

西日本で災害級の大雪 3日分の食料確保を

2016-01-21

SMAP騒動










感情労働



 宗教が求める奉仕活動は感情労働といってよさそうだ。

甘利経済再生相 疑惑持たれないよう説明責任果たす



【追加情報】

2016-01-16

似た者同士

2016-01-08

創価学会内部で治安強化




 そろそろ、やめ時だろうよ(笑)。心当たりがある者は録音・録画の準備を。

2016-01-02

宗教とフィクション


 フィクション(虚構)には力がある。私の世代が小学生で野球を始めたのは『巨人の星』(TVアニメ版)の影響が大きい。日本でプロサッカーリーグが誕生したのは『キャプテン翼』の功績といってよい。

 もともと物語は老いから若きへと「語り」を通して伝承された。人々は物語によって人生の規範や社会のルールを学んだ。グーテンベルクの印刷革命がマスコミュニケーションを可能にし、メディア革命はラジオ~映画~テレビ~インターネットと変遷を遂げた。

 フィクションの目的は「感情の操作」にある。喜怒哀楽を揺さぶり、カタルシスを与えることで社会に対する不満を解消する作用がある。現在では「パンとサーカス」のサーカスに該当するものが殆どだ。

 後期仏教はヒンドゥー教の復興に対抗するべく「仏教の物語化」を図った。これが私の見解である。つまり日本仏教はフィクションの上に成り立っているのだ。

池石戦争」によって創価学会における師弟関係も単なる作り話であることが判明した。さすがの私も驚愕した。

 大衆はいつの時代も物語を求めている。そして事実は歪められ、強者に都合のよい歴史が綴られる。例えば明治維新前後や大東亜戦争前後で世の中は一変した。いわゆる従軍慰安婦問題や南京大虐殺もフィクションである。本多勝一が『中国の旅』で紹介した「百人斬り競争」も新聞記者が捏造したフィクションであった。

 結局のところ外務省による放置・不作為が日本の国益を損ねるに至ったわけだが、こうした外務省の体質はGHQの占領下に形成されたものだ。外務省の官僚は殆ど公職追放されることなく、マッカーサーの手足となって働いた。その後、追放された党人派が自民党に復帰し、吉田茂率いる官僚派と熾烈な闘争を行う。

 話を元に戻そう。一神教はすべてフィクションである。


 スッタ(sutta)は「糸」という意味ですが、それよりも英語のフォーミュラ(formula)という言葉の意味がふさわしいかもしれません。フォーミュラは数学でいえば「式」という意味です。哲学や文法を語る場合も、まず「式」を作ってから語ることは、インドではよくあるやり方なのです。

【『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2009年)】

 真の宗教は数学のように単純で、そして美しい。

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章