2016-09-06

常楽我浄の誤り

「生老病死」という万人が避けられない問題を、いかに打開していくか。
 そこに光を当てられた大聖人の御聖訓を拝してまいりたい。
 御義口伝にいわく。
「我らが生老病死に際して、南無妙法蓮華経と唱え奉ることは、そのまま、常楽我浄(じょうらくがじょう)の四つの徳の香りを吹き薫らせているのである」(御書740ページ、通解)
「常楽我浄」の四徳とは、揺るぎない幸福境涯 ── つまり、"仏の生命"に備わる四つの徳を示している。
「常」とは、仏の生命が「三世永遠」であること。
「楽」とは、「苦しみがなく、うれしく、安らかなこと」。
「我」とは、「何ものにも壊されない自由自在の境涯」のこと。
「浄」とは、「このうえなく清らかなこと」をいう。

【第55回本部幹部会・全国青年部幹部会での名誉会長のスピーチ/聖教新聞 2005年12月13日付】

 三法印なかんづく諸法無我を知らずして、常楽我浄の四徳を理解することはできない。

 真蹟に常楽我浄との言葉は11ヶ所ある。日蓮は「苦・空・無常・無我」を四徳に対比している。

報恩抄 第34章 馬鳴竜樹等の大乗弘通

 私が指摘したい点については「小乗」側の論難として示されている。日蓮が根拠として挙げているのは「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」だけで何の合理性もない。むしろこの経文に注目することで日蓮の言動は過激を目指したようにすら見える。怨嫉の度合いが正しさを保証するのであれば、日蓮系の中では顕正会が一番正しいことになる。また戦前の共産党や、あるいはオウム真理教のような独善的かつ反社会的な集団の暴走を助長する考えとなりかねない。

「生きることは苦である」とブッダは説いた(一切皆苦)。仏道とは苦を滅する道である(四諦)。常楽我浄をあたかも幸福のスタイルやモデルのように考えるのは完全な誤りである。