2015-09-12

イデオロギーから離れよ

七八〇 あるひとびとは議論しているあいだに、激昂(げきこう)し憎悪の心をむき出しにしてやっているということも、よく知られているし、あるいはまた、これこそが真理だと確執した心で議論していることも、よく知られている。ところがしかし、沈黙の聖者は、論争の場面が発生したときにも、論争にかかわりあうことがない。だからこそ沈黙の聖者は、いかなる点においても不毛なるところがない。
七八一 というのは、〔こうだと考える宗教的ドグマに〕ひかれる関心に引きずられて、自分が好きなようにドグマを固定化して固執し、自分の信念だけにおいて真理だと信ずることを主張してやまないひとが、どうして自分の抱懐するドグマをふみ越えることができようか。そのようなドグマを認識しておればこそ、そのようなドグマを主張することは当然のことであるからである。

【『スッタニパータ〔釈尊のことば〕全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳(講談社学術文庫、2015年/講談社、1986年『原始仏典 第七巻』「ブッダの詩 I」より「スッタニパータ(釈尊のことば)」を文庫化)】

「第四章」より。「あとがき」によれば第四章と第五章にはマガダ語の要素があり、パーリ語経典の中でも最古層と考えられているとのこと。参考までに中村元訳も紹介しよう。

七八〇 実に悪意をもって(他人)を誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何事についても心の荒(すさ)むことがない。
七八一 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 タイトルも「憎悪についての八詩頌」「悪意についての八つの詩句」(中村訳)と微妙に異なる。中村訳についてはスマナサーラの批判があり、こうして見ると簡素な意訳であるように感ずる。

コスイギン「あなたの根本の思想は何ですか」 
池田「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」
コスイギン「この原則を高く評価します。この思想を私たちソ連も実現すべきです」(モスクワ、1974年

 もともと池田自身の言葉であるが、これを広く知らしめたのはSGI公認通訳の斎藤ベンツ・えく子であった。阿部vs.池田紛争直後の大学校運動で彼女は全国各地で講演を行った。

 対談そのものは池田の機知がコスイギンを納得させており友好を深めている。コスイギンとしては池田の宗教者としての顔を炙(あぶ)り出すつもりであったのだろう。コ首相の拍子抜けした雰囲気まで伝わってくる。が、しかしである。対談は評価するにしても、「平和主義、文化主義、人間主義」を外に向かって標榜するようになれば話はまた別である。

 現在、創価学会員による安保法案反対の動きが賑々(にぎにぎ)しく報道されているが、イデオロギー(主義)は衝突する傾向を有している。「我こそは正義」という錯覚が呼び覚ます情熱は暴力的ですらある(情熱)。

 もちろん署名活動やデモは「やむにやまれぬ心情」から行っていることであろう。しかしながら公明党や学会本部が今更反対に転じることは考えにくい。

 世界や世の中が複雑になればなるほど賛否が分かれる問題は多くなることだろう。その度に署名やデモを行うわけにもゆくまい。

 もともと創価学会員に宗教的信念をもつ人は少ない。「選挙ポスターを電柱に貼れ」と言われれば唯々諾々(いいだくだく)と指示に従い、「法華講との対論を避けよ」と言われれば肯(がえ)んずる。学会本部の意向に従わない者は裏切り者の烙印を押され、組織内での村八分が静々と行われる。妙観講大草講頭vs.佐藤浩・波田地の対論だって結局は実現せず、「逃げた」と言われても仕方のない情況をつくった。

 かつて絶対であった「本門戒壇の大御本尊」や「法主」を否定した我々である。昨日まで敵であった自民党と手を組んだ我々ではないか(笑)。今更何を恐れる必要があろうか。

 講談社本はこの文章の前段で「沈黙の聖者(牟尼)」と表記している。釈迦牟尼の牟尼だ。イデオロギー(主義)はドグマ(教条)に基づく。イデオロギーから離れることが正しい。「正義」が人を狂わせる。

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)