2015-06-16

「正しい怒り」など仏教では成り立たない

 正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。(中略)
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話 1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 事実を指摘された時、素直に耳を傾けることができる人は少ない。もちろん私もそうだ。歴史認識のテーマが錯綜する最大の理由はイデオロギーの正当化にある。人類が都市化するに伴って宗教を巡る議論は教団の論理で語られるようになってしまった。つまり宗教はイデオロギーに堕したのだ。「怒り」は幸福な生命状態ではない。「怒り」が正しいと思うなら、朝から晩まで怒っていればよい。心ある人々は速やかに離れてゆくことだろう。スマナサーラが正しければ日蓮は誤っている。日蓮が正しければスマナサーラが誤っている。それを自分で判断すればよい。

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)