2013-05-31
中野毅の朝風呂
・中野毅の朝風呂
さっそく茶々を入れさせていただこう(笑)。「日蓮本仏論考」について。
日蓮が本仏であればブッダは迹仏であり、ブッダが本仏であれば日蓮は迹仏である。これこそ本仏思想が避けることのできない本質的な矛盾である。本仏とは神格化の異名に他ならない。その最終形が久遠元初自受用報身如来や大日如来である。
・宮田論文に関する覚え書き 1
橋下市長への問責決議案を否決 公明が反対に転じる
公明党が大ポカを打った。何と橋下市長への問責決議案に反対し、その結果この決議案がご破算となったのだ。このことの歴史的意義は大きく、これによって公明党の現時点の立ち位置は明確になり「肝心な局面で国民を裏切る堕落した宗教政党」の評価が妥当性を得た。公明党は決定的に信義を喪失した。
— 中川 均さん (@naka8952) 2013年5月30日
当初「公明は市議会で維新と協調路線を取ってきたが、支持母体・創価学会の婦人部を中心に発言に対する反発が強く、29日、問責決議案に賛成する意向を固め」(朝日新聞デジタル 2013-05-30)ていた。
2013-05-30
あなたの望ましいと思う自由のあり方を述べよ」
一橋大学の法科大学院の試験に、安冨先生の文章が使われている。「あなたの望ましいと思う自由のあり方を述べよ」という設問で、どんな文章を書く学生を選抜しているのか。社会学や経済学の大学院とどう違うのか、興味深々。 bit.ly/10zEHqu
— 竹端寛さん (@takebata) 2013年5月29日
・安冨歩
2013-05-29
派遣法改正し"労働者保護法"に 志位委員長が質問:衆院予算委員会 2008年2月8日
さすが労働者の味方である。共産党を見直した。
中国のチベット族やウイグル族 3人集まると即懲罰の対象に/中国公安組織 チベット焼身自殺者の火を消し死ぬまで暴行
1996年までの約30年間にウイグル自治区のロプノルで46回の核実験が行なわれ、その影響で少なくとも19万人以上が死亡しました。/NEWSポストセブン|中国のチベット族やウイグル族 3人集まると即懲罰の対象に news-postseven.com/archives/20130…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月29日
チベットでは、共産党政府の圧政に抗議するための焼身自殺が後を絶たず、その数は100人を超えました。/NEWSポストセブン|中国公安組織 チベット焼身自殺者の火を消し死ぬまで暴行 news-postseven.com/archives/20130…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月29日
2013-05-27
先駆者・改革者は既成の制度から超脱して、野人として闘っていかざるを得ない
結局先駆者・改革者というのは既成の制度から超脱して、野人として闘っていかざるを得ないというのが宗教史の語る一つの側面かも知れません。そしてそれは党派形成ではなく、運動としてのみ存在せざるを得ないというところでしょうか。
— 氏家法雄さん (@ujikenorio) 2010年9月10日
ここに言葉の重要性があるわけです。独善性ではなく、人々の苦悩に寄り添い、心を打つ言葉を手繰る必要性。 RT @ujikenorio: 結局先駆者・改革者というのは既成の制度から超脱して、野人として闘っていかざるを得ないというのが宗教史の語る一つの側面かも知れません。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月11日
(評価はおきますが)内村鑑三の無教会も、無教会主義の同人であり、教会形成が目的ではない。教会化しようとすると内村はその潮流をすぐさま叩き潰してしまう(と、同時に思想的転回も行うのですが)。不敬事件のことよりも、そうした内村の足跡は、もっと評価されてしかるべきだろう。
— 氏家法雄さん (@ujikenorio) 2010年9月10日
サンガとは社会の外側に位置する組織であったと想像します。しかも、脱社会でありながら脱ヒエラルキーであったことでしょう。これは経済性・政治性から離れることを意味していると思う。 RT @ujikenorio: 内村鑑三の無教会も、無教会主義の同人であり、教会形成が目的ではない。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月11日
集団化は必ず匿名主義へと道を開く。だから内村は「私は、、、」という言述にこだわった。匿名主義は宙ぶらりんな言葉だからだ。ただしそれが過度に強調されると、又一つの教祖化を招いてしまうことも付言(吉満義彦は恣意的で「人間臭い」といってカトリシズムへと転回しましたが)。
— 氏家法雄さん (@ujikenorio) 2010年9月10日
犀の角のように独り歩む者同士の連帯は果たして可能なのか? それは互いの距離を維持しながらの行進となる。果たしてその大地とは? RT @ujikenorio: 集団化は必ず匿名主義へと道を開く。だから内村は「私は、、、」という言述にこだわった。匿名主義は宙ぶらりんな言葉だからだ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月11日
2013-05-26
願兼於業という無限ループ
三世永遠の幸福境涯とか言って騙されるなよ。願兼於業って無限ループの罠がしかけてあるからな。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月24日
笑っちまったよ。私の知る限り、普通に素直にそのままクリシュナムルティを理解した人物は小幡照雄〈おばた・てるお〉さんを除けば彼女くらいだ。
2013-05-25
30歳の思い出
情報操作「7つの原則」
マルチ商法や新興宗教も同じ手口。/ここに注視。情報操作として使われている「7つの原則」とは bllackz.com/2013/05/blog-p…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月24日
(1)攻撃相手にレッテルを貼る。
(2)スローガンで自国の正義を煽り立てる。
(3)権威付けで、正当性を強調する。
(4)権威者・カリスマに協賛(ステマ)してもらう。
(5)自分たちが味方であると一体感を強調する。
(6)メリットを最大限に強調、デメリットは矮小化。
(7)これが流行っているとブームを作る。
2013-05-24
模倣に意味はない
見知らぬ方からお手紙を頂いた。ちょっと前、座談会で読んでもらう原稿を書いたんだけど、それについてのご感想。簡単にいうと「模倣に意味はない」って話をしたんだけど、「凡夫には模倣でしか近づけない真理がある。その方途を批判するのは成仏の道を塞ぐ残忍な行為だ。」とのこと。一応、想定内。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月23日
で、真理に近づいた人はどこにいるのだ? いるんだったら連れて来てもらおうか。私が相手になってやるよ。模倣で真理に近づけるのであれば、付法蔵の二十五人は百人、千人と連なるはずではないのか? しかも日蓮は「又付法蔵の二十五人は仏をのぞきたてまつりては、皆仏のかねて記しをき給へる権者なり」(真蹟)と断言しているのだ。
また模倣とは何か? 聖教新聞の多部数購読や多額の負担を強いる財務、打ち合わせ、書類作り、会合に次ぐ会合……。これらのどこで仏法が語られているのか? そもそも誰の模倣なのか?
「成仏の道」など聞いたふうなことを言っているが成仏した人はどこにいるのか? 死相判定以外の成仏があるなら持って来いや、って話だわな。
果たして模倣でイチローや三浦雄一郎になることができるだろうか? 模倣すればミケランジェロやダ・ヴィンチのような絵を描くことができるのか?
10年、20年、あるいは30年以上も模倣をしてきて一つの創造もないとすれば、それは単なる物真似かごっこの世界であることを自覚すべきだろう。
模倣によって悟りが得られることはない。模倣とは自分を特定の鋳型にはめ込む営みにすぎないからだ。
・模倣
2013-05-23
先駆者は味方から背中を撃たれる
要するに先駆者や意識ある連中は味方から背中を撃たれたのがその歴史。しかし百年経つとその成果が、メインラインの成果として無邪気に語られてしまう。近代の仏教、諸宗教も同じ。本物の人間は、何故か潰される・排除されていく。これが不幸な歴史家も知れません。
— 氏家法雄さん (@ujikenorio) 2010年9月10日
で、実は権力者というよりも、権力者を支持する大衆から撃たれているんですよね。排除と革命の分かれ道は時のしからしむるところか。 RT @ujikenorio: 要するに先駆者や意識ある連中は味方から背中を撃たれたのがその歴史。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月11日
2013-05-22
社会と融合すれば、その社会を変革する力を失うというジレンマ
社会と融合すれば、その社会を変革する力を失うというジレンマ。革命を叫ぶ組織は、権力者から見れば暴力そのもの。治安維持という便利な言葉を持ち出して弾圧するのは火を見るよりも明らか。 RT @ujikenorio: といっても本朝の場合、殆どの宗教が背骨を抜かれた公認教になっている
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月9日
社会との摩擦、組織内部の圧力を知る者が「気体」となって自由を手に入れる。 RT @ujikenorio: 迎合か都合よく潰されるかの二者択一。そこから逸脱していくのは結局個人のみですね。 RT @fuitsuono: 社会と融合すれば、その社会を変革する力を失うというジレンマ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月10日
2013-05-21
儀式と共同体
教えを普及させるために儀式ができる。そのうち儀式が独り歩きして、教えを理解しないまたは曲解した人間が儀式を継承する。そんで儀式を語りはじめる。馬鹿はそうして生まれる。でも仕方が無いと思う。儀式っちゅうのは元々普及のために馬鹿のレベルに合わせたものなんだから。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月21日
@shirayuri_kun これはそう簡単な話ではないんだな。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月21日
少し解説しておこう。宗教の始原を考えると祭儀や死者を送る行為の重要性が浮かんでくる。儀式は単なる形式というよりも手続きと考えるべきだろう。つまり共同体を支えているのは儀式(≒手続き)なのだ。これは現代社会においても何ら変わることがない。冠婚葬祭に始まり、卒業式、成人式、入社式、はたまた訴訟から役所の書類に至るまで儀式のオンパレードであるといってよい。
一時期自由な葬儀のあり方が話題となったが、現在では簡素化を嘆く声も多い。悲嘆を確認し合う行為が共同性を支えているためであろう。
儀式が完全に生活に溶け込んだものが礼儀である。多分かっぱ君の言いたかったことは、礼儀の意味や心を失えば儀礼と化すことへの懸念であったのだろう。
儀式性と宗教性は一大テーマである。新しい形の「祭り」を創造しなければ、大衆は暴力に傾斜しやすくなることだろう。
・化儀を考察するヒント
・戒律の問題
・進化宗教学、あるいは宗教工学に関する覚え書き
2013-05-20
信仰とは「仰ぐ」こと
信仰という言葉はよく出来ております。砂漠で天を仰ぐということで、「仰ぐ」信なんですよね。その意味では向き合うところに意義を見いだした言葉です。 RT @fuitsuono: 個人というのは「神と向き合っている人」のことなんですよね(笑)。
— 氏家法雄さん (@ujikenorio) 2010年8月13日
・信仰という言葉について
・社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章
聖教新聞の池田先生商法
メール一つで「新聞あと10部足りません。そちらのブロックで5部お願いします。」って言われて困ってるんだって。でも「先生がやるようにって言われたことは一つずつやって行くしかない。福運は絶対についてくる。」んだって。聞いてて泣けてきたよ。「もー辞めてしまいなよ。」って言っておいた。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月19日
困っているのは白ゆり長のようだ。特定商取引法違反で消費者庁に申告してはどうか? 善良な人々はいつの時代も無力である。彼らは常に犠牲という選択を強いられる。そうした行為が更なる被害を拡大する。
・断る
・聖教新聞
2013-05-19
日蓮の誤認
「女人五障」等の性差別が教理的に何の根拠も持たないことは明らか。ですから、そういう箇所は手違いで混入した異物と扱い、無視して良いと私は思っています。
【『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英〈くれ・ともふさ〉(サンガ、2012年)】
・宮崎哲弥
2013-05-18
意識のネットワーク化
ツイッターで流れてくる情報には瞠目すべきものが多く、自分で検索をかけながら確認をし、その度に知的欲求(または要求)が拡がってゆく。私はPCでしかツイッターにアクセスしてないが、ずっとPCの前にいれば3分置きくらいでツイートすることが可能だ。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月10日
ここまで考えて気づくわけだが、情報発信はキー入力と思考のスピードを超えることができない。ツイッターは思考の流出と考えることもできる。自分の思考と誰かの思考とがふれ合い、時に反発し、擦れ違い、一つになる。つまり脳内と脳外のネットワークが進行しているのだ。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月10日
最終的にどうなるのか? そんなことはわかりきっている。「一つの脳」になるのだ(笑)。その時私は人類のシナプスと化すことだろう。本当にそんな時代が訪れた暁には、言葉を介すことなく相手の意識をキャッチできるようになっているかもしれない。PC不要、意識のネットワーク化だ(笑)。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月10日
2013-05-17
制度宗教は政治化を避けられない
制度宗教=組織宗教は現実的すぎて政治に取り込まれるのです。そもそも制度や組織そのものが政治化することなんで、宗教にとっての一大テーマになるはず。連帯と依存の矛盾をどうやって解消するのか。 RT @ujikenorio: 制度宗教がしっかりやってくれないとマズイですよ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月9日
正確にいうともちろん「制度宗教=組織宗教」ではない。またキリスト教に対する無理解ゆえ、日本では宗教社会学用語にとどまっている現状がある。
2013-05-16
精神の習慣性を破るものが懐疑である
懐疑は一つの所に止まるというのは間違っている。精神の習慣性を破るものが懐疑である。精神が習慣的になるということは精神のうちに自然が流れ込んでいることを意味している。懐疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に対する知性の勝利を現わしている。不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端初(ママ)としての原理は不確実なものである。懐疑は根源への関係附けであり、独断は目的への関係附けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家であるというのがつねであることは、これに依るのである。しかも独断も懐疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。
【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)以下同】
石はたとい百万遍同じ方向に同じ速度で投げられたにしてもそのために習慣を得ることがない。習慣は生命の内的な傾向に属している。
40代でこれがわかれば人生の質が異なってゆく。
・真の懐疑は精神の成熟を示す
・三木清
2013-05-15
2013-05-14
瞑想は祈りと無縁
瞑想は祈りとは無縁である。祈り、祈願は自己憐憫から生まれる。あなたが祈るのは何か困ったとき、悲しいときであり、自分が幸福で楽しいときには、祈願などはしない。人間に深く根づいたこの自己憐憫は、分離の根本要因である。
— Krishnamurtiさん (@krishnamurtibot) 2013年5月13日
・瞑想とは思考の沈黙である
支配されたい願望
「支配されたい願望」が占ってもらいたがるのです。行き先が不明なため(笑)。 RT @ujikenorio: ここがスピリチュアルの温床になってしまうのが難。RT @bon_pu: DNA還元主義も「診断」心理学も信じる人からしたら、「ワラ」を掴む気持ちなんでしょうかね。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月9日
2013-05-13
創価大学について
創大の人ってやっぱ悪いけど特殊な感じがするなあ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月11日
それが悪いってんじゃないけど、モノゴトには手遅れってこともやっぱあるんだろうな…という気がしてくる。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月11日
子供を一貫教育に入れてたりして親が不信になったらどうすんだろ。。。悲劇だなあ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月11日
やっぱ宗教が教育に携わるのはどうも……人材育成とか言い出すのはどうも……気持ち悪い結果が待ってる気がする。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月11日
正解。その通りだ。我が妹分はどんどん威勢が加速している(笑)。
創価大学の問題については折にふれて、それとなく書いてきた。
・日本の悪弊を転換するところに創価大学の重要な使命がある
・創価大学の失敗
「我が子を創価大学に入れるべきか?」という相談も随分と受けてきたが、数年前から「やめるべきだ」と答えている。
本来であれば、しっかりと熟考し長文をしたためたいところであるが、思いつくままに問題点を書き残しておく。
まず創価大学出身者でまともな人物を見たことがない。中には尊敬できる人もいる。力のある人もいる。私より結果を出している人も一人だけ存在した。
しかしながら99%はおかしい。エリート主義と書いてしまえば陳腐になってしまう。根拠なき驕慢、正体不明の思い上がり、自分たちは特別であるという錯覚した自意識、そしてそこから発する腐臭。現役の創価大学生ですらそうなのだ。
私の世代だと東京の下町で創大卒は完全にバカにされていた。「だから何?」って感じだ。実際、旧ブログにも書いたが、勤務先の婦人から「創価大学って、創価学会のエリートを育成しているんでしょ?」と尋ねられ、私は高笑いをし「そんなことはありませんよ。組織の現場では役に立たないのばっかりですから」と答えたことがあった。
私が本格的に「あれ?」と思ったのは今から10年以上前にさかのぼる。「戸田第二代会長には妾(めかけ)がいた」と主張する人物と私がウェブ上で議論をしていた際に、「実はいたんですよ」と教えてきたのが創大出身者であった。役職は私よりもずっと下のメンバーであったように記憶している。
彼らは特殊な情報にアクセスしていて、妙なところで事情通ぶる悪癖がある。そのくせ真っ向勝負で闘うことがない。
八王子へ引っ越して本当に創価大学がおかしいことがわかった。創価大学はうつ病だらけだ。たぶん日本一だと思う。親の都合で受験させられたためだろう。私がかつて最も信頼した現役創大生の話では1/3くらいが精神的におかしいということだった。
サークルなんぞに入ったらアウトだ。新一年生は先輩から「池田先生と自分の関係について述べよ」と命じられ、これが毎回毎回延々と3時間ほども続くというのだ。かつて中国共産党が米兵に対して行った洗脳そのものである。
八王子はまた大学職員・創大出身者の天国でもあった。きちんとした指導もできないようなのばっかりだ。まるで東大法学部卒の官僚を見ているようであった。
創価大学失敗の遠因は公明党結党にある。当時、「対外的なことも考えて、一見信心のないような人を衆議院選挙で推すことがあるかもしれない」という趣旨の会長指導があった。ここにおいて総体革命は信心から乖離(かいり)していったのである。広布第一章は折伏をした人が指導者になった。第二章においては雄弁な者が重用(ちょうよう)され、池田vs.阿部紛争以降は完全に調整型リーダー(=婦人部と波風を立てない)が登用されるに至った。
ウェブ上で「創価大学出身」と謳っている連中は一種のプロパガンダ部隊と見てよかろう。
致命的なのは創価大学に自浄作用が働かないことだ。私からすれば、親元を離れて上京した大学生が一人でもうつ病になれば大問題だ。ところが何十人、何百人のうつ病・統合失調症患者が出ても、内側から声を発し、反省する者が一人もいない。本当に一人もいないのだ。
面倒くさくなってきたのでもうやめる(笑)。
創価学会が本当に変わり得るとすれば、まず創価大学の内部で革命が起こる必要がある。それだけは確かだ。
2013-05-12
日本と中国が「互いに殺し合う」ように仕掛けている謀略国家
なぜ、日本と中国なのか。それは、アメリカの米国債を莫大に買ってアメリカの債権者となっているのがこの両国だからである。/日本と中国が「互いに殺し合う」ように仕掛けている謀略国家 bllackz.com/2013/05/blog-p…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月11日
・今は「平和を説くべき時ではない」
2013-05-11
2013-05-10
熊楠マンダラ
こりゃ凄い! RT @ujikenorio: 因果の支配する歴史認識・人間理解からは、熊楠マンダラは発生できない。因果の支配とは因果の奴隷を意味するし、展開可能性の余地が残されていないからだ。 http://p.twipple.jp/FsPw6
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月8日
・http://p.twipple.jp/FsPw6
熊楠マンダラと脳内ネットワーク http://bit.ly/abQMvu
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月8日
・熊楠マンダラと脳内ネットワーク:山本眞人
・南方熊楠の曼荼羅論 社会学者・鶴見和子
・時代が彼にあこがれる 知の巨人・南方熊楠
2013-05-09
呪術~フレイザーの理論
人類学者サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザーは、『金枝篇』において、文化進化主義の観点から、呪術と宗教を切り分け、呪術には行為と結果の因果関係や観念の合理的体系が存在し、呪術を宗教ではなく科学の前段階として捉えた。
フレイザーは、呪術を「類感呪術(または模倣呪術)」と「感染呪術」に大別した。
・類感呪術(模倣呪術、英: imitative magic)
類似の原理に基づく呪術である。求める結果を模倣する行為により目的を達成しようとする呪術などがこれに含まれる。雨乞いのために水をまいたり、太鼓を叩くなどして、自然現象を模倣する形式をとる。
・感染呪術(英: contagious magic)
接触の原理に基づく呪術である。狩の獲物の足跡に槍を突き刺すと、その影響が獲物に及んで逃げ足が鈍るとするような行為や、日本での藁人形に釘を打ち込む呪術などがこれに含まれる。感染呪術には、類感呪術を含んだものも存在するとフレイザーは述べている。呪術を行使したい対象が接触していた物や、爪・髪の毛など身体の一部だった物に対し、類感呪術を施すような場合などである。
フレイザーは進化主義的な解釈を行い、宗教は劣った呪術から進歩したものであるという解釈を行ったが、エミール・デュルケームはこれを批判的に継承し、本来集団的な現象である宗教的現象が個人において現れる場合、呪術という形で現れることを指摘した。さらにマリノフフスキは、機能主義的な立場から呪術や宗教が安心感をもたらしているいうことを指摘し、また動機という点から人に禍をもたらすそうとする呪術を「黒呪術 / black magic」といい、雨乞いや病気回復など公共の利益をもたらそうとする呪術を「白呪術 / white magic」とした。しかし超自然的なものである呪術だとしても、意図的なものと非意図的なものがあるとして、エヴァンズ=プリチャードは前者を邪術、後者を妖術として区別する必要性を主張した。
・ビーティ(J.Beattie)は、呪術を象徴的な願望の表現とした。
レヴィ=ストロースによる指摘
レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探るものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした。
「野生の思考」は、素人が「あり合わせの材料でする工作」(ブリコラージュ)のようなものであり、このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも日常的にはそのような思考方法を採っていることを指摘し、それまでの自文化中心主義的な説明を根底から批判した。
【Wikipedia】
病気平癒は呪術であり、ホワイトマジックである。
2013-05-08
世界を言語化する
あ! それが答えかも。世界を言語化することでコミュニケーションが可能になる。あるいはコミュニケーションを図るために世界を言語化する必要に迫られる。 RT @ujikenorio: しかし逆に理屈が世界を形成するとすればこれこそコペルニクス的転回の一つの事例ですね。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月8日
ブラックホールは理論が先に生まれ、その後実際に観測された。アインシュタインの相対性理論も同様であった。
2013-05-07
「96条改正」もがく公明 憲法記念日アピールも急遽差し替え
4月30日午前10時過ぎ。党所属国会議員あてに「憲法記念日アピール」の文書が添付された一斉メールが届いた。文書は従来の「加憲」の立場を表明。「憲法は不磨の大典ではなく、憲法条文のどこをどう変えるのがふさわしいかの全体観に立った論議が必要不可欠だ」などと書かれていた。
ところが、6時間余り後の午後4時半過ぎに突然、文書の「差し替え」を知らせるメールが届いた。
「憲法は不磨の大典ではなく、改正要件の『3分の2』も含め憲法条文のどこを」と、改正発議の要件を定めた96条が強調されていた。党幹部は「差し替えは北側(一雄副代表)さんが命じた」と打ち明ける。
公明党は96条改正には慎重だ。支持母体の創価学会関係者の間には「96条改正は9条改正に結びつく」との不安が根強い。にもかかわらず、北側氏がわざわざアピール文を差し替えたのは「絶対反対の野党とは違い、議論の余地がある」(党幹部)という姿勢を首相や自民党に示すためだ。
山口那津男代表も27日、「中身によって固く守るべきものと、柔らかくしていいものとがあるかもしれない」と発言。96条改正の後、改正手続きを進められる条文を限定するなどの案にも言及し「(96条改正は)議論が熟していない」との牽制(けんせい)一辺倒から転換した。同時に、党幹部らは政府高官に水面下で接触し「首相サイドに理解を求めている」(党幹部)という。
参院選前に公明党と対立したくないのは、参院での多数与党を実現し、国会の「ねじれ」解消をめざす首相も同じ。首相は5月1日、訪問先のサウジアラビアで「(96条改正に)慎重な意見も承知しており、誠意を持って議論を進めたい」と一定の配慮を見せた。ただ、両党の憲法をめぐるスタンスは明らかに異なっており、当面の「休戦」は根本的な解決とはほど遠いのが実情だ。
【MSN産経ニュース 2013-05-03】
みなもと太郎作『教学博士』
呉●ほかにも仏教を宗派の側から描いたマンガはあるけど、やはり創価学会系の第三文明社からいくつか出ていて、なかでもみなもと太郎の『教学博士』っていうのが名著なのね。仏教がものすごくよくわかる。
宮崎●『教学博士』は聖教新聞社の聖教コミックスですね。『仏法おじさん』とかもあった(笑)。第三文明社からはDBコミックス『豊くんの仏法セミナー』シリーズとして『天魔3000年!』『修羅の正体!!』『人類み~んな「十界論」』の3巻が出ています。まあ内容は言わずもがな……ですが。
呉●『教学博士』は最後のところがやっぱり宗教としての飛躍だなと感じたけど、大まかな解説としてひじょうにわかりやすい。ただ、今では創価学会としては表に出したくないらしい。
宮崎●え、どうしてですか?
呉●日蓮正宗原理主義的で、昨今の創価学会との乖離(かいり)が出たかららしいね。
宮崎●みなもと氏のような大家でもそういう軋轢(あつれき)が生じ得るのですね。部外者にはどこに乖離が生じているのか検出できないけど。
呉●私もそう思うんだがね。
【『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英〈くれ・ともふさ〉(サンガ、2012年)】
マンガに造詣が深い二人であることは知っていたが、「どんだけ読んでいるんだよ!」ってなレベルだわな。
宮崎氏は毎月200冊、実に1日6冊以上の本を読破/宮崎哲弥の情報収集術に学ぶ 次世代「情報収集の達人」(ITライフハック) - IT - livedoor ニュース news.livedoor.com/article/detail…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月6日
『教学博士』は私も愛読した。小学生から中学生にかけて100回以上読んでいる。
二人が絶賛している『祝福王』の作者たかもちげんが創価学会員であるとは知らなかった。わたしゃ、リアルタイムの連載で読んでいたんだよね。
それにしても宮崎の知識は豊富だ。宗教界で彼に伍することのできる人物が果たして何人いることやら。
・宮崎哲弥